旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


戦艦 金剛

戦艦 金剛【金剛型戦艦 一番艦】
Battleship  KONGO 【KONGO-class Battleship 1st】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
台湾海峡
建 造
1911年1月17日 1912年5月18日 1913年8月16日 1944年11月21日 英 ヴィッカース社
基準排水量 水線  幅 速 度 馬 力
① 26,330t
② 29,330t
③ 31,720t
① 212.00m

③ 219.43m
① 28.04m
② 29.04m
③ 28.96m
① 27.5ノット
② 26.0ノット
③ 30.3ノット
① 64,000馬力

③ 136,000馬力
①1913年竣工時  ②1931年(第一次改装完了後)  ③1937年(第二次改装完了後)

イギリスで建造された、日本初の超弩級戦艦 金剛


1900年代の時点で日本で最も有名だった戦艦は、「日本海海戦」で大国ロシアのバルチック艦隊を打ち破った【敷島型戦艦 三笠】でした。
しかしその【三笠】はイギリスのヴィッカース社製。
世界の軍拡の波は徐々に大きくなっており、日本も将来を見据えて初めて自前で戦艦を建造します。
それが、【薩摩型戦艦 薩摩・安芸】です。
不具合はあったものの、そもそも東洋のごく小さな島国が戦艦を建造し、しかもそれがほぼ正常に動くことに世界は驚きました。
建造が始まったのは明治38年。
髷を結い、刀を手にし、着物で街を行き交っていた国が、たった40年もしないうちに産業革命で技術革新を続ける欧米列強に追随するまでに至ったのです。
竣工当初は様々な不具合がありましたが、改装を経て、最終的には前弩級戦艦ながらも弩級戦艦並みの性能まで向上しています。

しかし、1906年にイギリスが【薩摩】竣工前に【弩級戦艦 ドレッドノート】を建造。
この【ドレッドノート】は強さから形状から、そして戦い方から、これまでの全てを覆す超革新的戦艦でした。

これによって世界各国の戦艦が一斉に旧式化。
イギリス国内の戦艦も含めてすべてが「前弩級戦艦」という烙印を押されたのです。
各国、まずはこの【ドレッドノート】に並び立つ戦艦を揃えなければならなくなります。
これが「ドレッドノート・ショック」です。
今は「ものすごい」という意味の表現としても使われる「超ド級」のドは、この【ドレッドノート】【ド】なのです。

その「ドレッドノート・ショック」から2年後の1908年には【ドレッドノート】の設計を反映させた世界初の巡洋戦艦【インヴィンシブル】が、更に翌年には早くも【ドレッドノート】の性能を上回る【超弩級戦艦 オライオン級】の建造がはじまりました。
一方日本は、造船技術はまだまだ改善の余地がある中で、更に超弩級戦艦の建造という難題を突き付けられていました。
1912年に日本初の弩級戦艦として【河内型戦艦 河内・摂津】が竣工するのですが、「河内型」は設計そのものに問題があった上、時代はもはや弩級戦艦すら取り残すほど早く進んでいました。

日本はこの技術革新の波に取り残されまいと策を練りますが、すでに完成している戦艦は見劣りすることが確実で、更に世界も「超弩級戦艦」の建造が盛んに行われることが目に見えていました。
しかし日本は日に日に進化していく「超弩級戦艦」の設計案に戸惑い、どの戦艦の設計をお手本にしたらいいのか迷います。
乱立した設計案ですが、おおよそ統一されていた性能として、排水量18,000t、速度25ノット、12インチ砲8門があり、これはイギリスの「インディファティガブル級巡洋戦艦」の性能をベースとした「伊号装甲巡洋艦」として計画されていました。
ところが予算が改造や日露戦争の戦利艦の補修などで食いつぶされてしまい、この計画はなかなか進みませんでした。
1910年に予算は通りますが、この時はもうイギリスもさらに強力な巡洋戦艦に着手しており、日本は常に後手に回されてしまいます。

埒が明かなくなった日本は、まずは超弩級戦艦の建造技術を持つイギリスに本物を造ってもらおう、ということになり、発注されたのがこの【金剛】です。
「伊号装甲巡洋艦」の建造に当てられていた予算を、イギリスの最新超弩級戦艦の建造に回すことにしました。
当時は日英同盟が存在し、また先のように大国ロシアのバルチック艦隊を粉砕した【三笠】の経緯もあって、障害はほとんどありませんでした。
【三笠】の勇姿にはイギリスも賛辞を送っており、自国の建造した戦艦の活躍に誇りを持っていました。)
発注に際し、日本の技術者の派遣や、図面の入手、また「金剛型戦艦」の日本国内での建造の許可なども取り付けています。
日本としてはこの【金剛】を手本にして欧米列強に一気に並び立つ戦艦を揃えたいという強い意志がありましたので、このイギリスの建造技術は是が非でも入手しなければなりませんでした。

一方イギリスですが、【金剛】に限らず、他国への輸出船には自国では採用していない技術をテストすることが珍しくありませんでした。
それに加え、イギリス海軍当局から本来課せられる制約から解放された設計だったため、【金剛】の建造はイギリス海軍にも非常にメリットのあるものでした。

日本はこの【金剛】発注に際し、イギリスの「ライオン級巡洋戦艦」に注目していました。
「ライオン級」は超弩級戦艦の性能を持った巡洋戦艦で、とにかく最強という言葉がふさわしい戦艦だったため、日本が「ライオン級」に注目するのも当然だったでしょう。
しかしイギリスはこの「金剛型」の設計に際して参考にした艦は、オスマン帝国向けに建造した戦艦【エリン】であることを設計部長が証言していて、「金剛型」はこの【エリン】を巡洋戦艦に改良したものという認識が正しいようです。

しかし「金剛型」はこの【エリン】を上回る35.6cm連装砲、つまり世界最大口径の主砲を搭載します。
主砲を前後に2基ずつ、それぞれ背負式で搭載し、両舷には15.5cm副砲が8基ずつ装備されていました。
さらに「ライオン級」で問題が発覚した後方射角の悪さを構造物配置を変更することで改善。
脱線するので詳しくは書きませんが、戦艦と巡戦は設計の発展ルートが異なるため、戦艦の設計が成熟していたイギリスでも、巡戦についてはまだ試行錯誤の繰り返しでした。
厚い装甲、最高速度27.5ノット、スタイル、バランスも整っていた「金剛型」は、【エリン】「ライオン級」を組み合わせてさらにクラスアップさせた、イギリスも会心の出来と自画自賛できるほどの完成度だったのです。

イギリスはこの【金剛】の建造が大成功したため、【ライオン級四番艦 タイガー】の建造を遅らせて【金剛】の経験を組み込んだ新しい【タイガー】を生み出しています。
あまりに優秀だったため、後に勃発する第一次世界大戦時には「金剛型4隻を貸してほしい」とまで日本に頼んできたほどです。

そして1913年11月5日、【金剛】は地球を半周し、横須賀へやってきました。
最後の海外産戦艦【金剛】の誕生です。

巡洋戦艦から戦艦へ 日本の戦艦史の転換をもたらした金剛


さて、高速戦艦の前に、巡洋戦艦とはなにか。
言い換えれば「超火力巡洋艦」で、敵戦艦との対戦用に建造されたものではありません。
そもそも厳密に言えば戦艦でもありません。
現に日本では「装甲巡洋艦」の発展型として「巡洋戦艦」を捉えています。
命名が戦艦の「国」の名前ではなく巡洋艦の「山」の名前である理由もこれが答えです。

確かに戦艦に引けをとらないほどの主砲を搭載はしていますが、戦艦に比べて防御力が弱いため、まともにやりあえば負けてしまう可能性が非常に高いです。
高速性能は、その退避の時に大きく役立ちました。

逆に巡洋艦以下相手には、戦艦に近い攻撃力を持ち、さらに高速性もあるため、戦闘を有利に進めることができます。
巡戦とは、「巡洋艦の中で戦艦クラスの強さ」というような分類でした。
ですので、「金剛型」は主力部隊ではなく護衛部隊に編入されることが多く、また水雷部隊の一員として扱われました。
竣工当時は戦闘距離10kmに満たない距離で行われることを想定されていたため、魚雷も搭載しています。

しかし「金剛型」は前述の通り、完成させたイギリスですらよだれを垂らすほどの大成功の巡戦でした。
やがて第一次世界大戦の戦訓から巡戦の需要は減少していくのですが、世界最強の戦艦が巡戦だった時期があったことは事実です。

そして日本も、恐らく到着した【金剛】の姿を見て足がすくんだのではないでしょうか。
でかい!
その一言だったと思います。
【河内】の全長が160mに対し、【金剛】は214m、排水量は20,800tから一気に26,300tまで増加。
これが、世界最強の戦艦であり、世界最強の巡洋戦艦でした。
ただ、【金剛】が日本に到着した頃にはすでに国産の超弩級戦艦【扶桑】の建造は始まっていましたから、日本も独自で頑張っていました。

さて、【金剛】が日本にやってきてから15年が経過すると、さすがに【金剛】も旧式化してしまい、世界各国の戦艦に比べると明らかに劣っていました。
ただ、日本は米英のような巨大戦力の保持も建造もできませんし、加えて1921年の「ワシントン海軍軍縮条約」によって保有制限もかけられてしまいました。
そのため、これまで何度も小改装を繰り返してきた【金剛】ですが、1928年10月からは約3年間の大規模改装工事に入ります。
ちなみにこの時同時に艦齢が20年を超えた戦艦は代艦建造が認められていたことから、「金剛型代案」の設計も進んでいた時期がありましたが、これは「ロンドン海軍軍縮条約」の締結によって戦艦建造中止期間が延長されてしまい、立ち消えとなっています。

改装のメインは、巡戦最大の弱点である防御力の向上と、ボイラーの交換でした。
ボイラーは混焼缶6基と重油専焼缶4基の計10基となり、これにより排煙量が減少するため煙突も2本となりました。
艦橋は日本の軍艦の特徴とも言える、パコダマスト(櫓式艦橋)がここで登場します。
「大和型」【比叡】以外の戦艦の艦橋はすべてパコダマストです。
(パコダマストは旧式からの改装による副産物です。)

防御についてはあらゆる箇所の装甲板を厚くしたり、新たに喫水線長の4/5に渡ってバルジを増設するなど徹底的に底上げをします。
これにより速度は26ノットまで落ちてしまいますが、当時はもう「長門型」を始めとした41cm砲が最大口径で、これを受ければ「金剛型」はひとたまりもなかったため、致し方ありませんでした。
また、建造当初よりも戦闘距離が劇的に伸びたため、近距離戦用の魚雷は撤去されました。

そしてある意味ではもっとも重要な変更が、「戦艦」への種別変更です。
前述の通り「巡洋戦艦」は日本ではまだ巡洋艦分類でありましたが、「ワシントン海軍軍縮条約」では当然戦力的にも戦艦扱いです。
1931年、「金剛型」4隻は揃って「戦艦」へと分類され、同時に「巡洋戦艦」という種別も廃止されました。

時は進んで1935年、「金剛型代案」の計画が消滅したこともあり、【金剛】は再び大規模な改装を施されることになりました。
ここで取り戻したかったのは、すでに高速でもなんでもなくなった26ノットという速度からの脱却です。
第一次改装では主機の交換はありませんでしたが、今回は6基の混焼缶をすべて専焼缶に置き換えるのと同時に、主機もそっくり入れ替えることになりました。
これにより馬力はほぼ倍の136,000馬力にまでになり、速度は一気に30ノットに向上。
これが「金剛型」が高速戦艦と呼ばれる所以です。
(戦中には30ノットを超える戦艦は欧米でも多数ありましたが、艦齢20年を超える30ノット戦艦は「金剛型」のみです。)

他にも艦橋や艦首が大幅に変更され、機銃の増設、主砲の仰角向上、燃料搭載量の増による航続距離向上など、今回の改装も多岐にわたりました。
なんと構造物撤去後に船体上部を切り開くほどの改装でした。
しかしこれだけのことをしなければ【金剛】は生き残れないと判断されたのです。
これでも防御力の向上はもう無理だと判断されたため、万全の改装とは言えませんでした。
そのため「戦艦」に分類されるものの、【金剛】は主に強力な巡洋艦としての立ち回りを求められました。
つまり、巡洋戦艦としての運用が【金剛】の任務だったのです。

日本の戦艦を牽引し、最後まで奔走した金剛


第一次世界大戦にも参戦している(実際に実施した作戦はありません)【金剛】は、太平洋戦争開戦時は誕生から30年近く経つ、大ベテランでした。
しかし「金剛型」はその高速性を活かし、様々な海戦に参加しています。
超弩級戦艦ではありますが、役回りとしては先に述べたとおり、巡洋艦以下の掃討、または空母・主力戦艦の護衛です。
敵主力部隊相手では攻防ともに勝ち目がないものの、その部隊との戦を有利に進めるためには、随伴艦の数を減らすことが非常に重要になります。

また空母は、艦載機で攻撃を行うため、空母そのものが戦闘に参加することは基本的にできません。
空母がやられてしまうと、出撃した艦載機は戻る巣を失うこととなります。
護衛艦なしの空母運用は考えられませんでした。
その護衛として、「金剛型」は重宝されました。

その一方で、活躍した理由としては、「ボロいから潰れても構わん」ということもあります。
二度の改装で性能が向上したとはいえ、大戦中はすでに敵国の戦艦・巡洋艦の強さも増し、また戦闘も航空戦が主流になっていました。
防御力は上限に達してしまい、潰れるまで使い古すという思考は軍艦数が圧倒的に少ない日本としては当然だったかもしれません。

このように、理由はともあれ引っ張りだこだった【金剛】は、「金剛型」以降の戦艦とは違い、作戦に参加するだけでなく、しっかりと敵部隊と戦っています。

開戦直後の1941年12月10日、「マレー沖海戦」ではあわや【英キング・ジョージ5世級戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ】との砲撃戦になるところでしたが、日本の「九六式陸上攻撃機・一式陸上攻撃機」の活躍によって【プリンス・オブ・ウェールズ】と、同行していた【レナウン級巡洋戦艦 レパルス】は沈没。
いきなりの危機を無事に切り抜けました。
これは「真珠湾攻撃」に続き、機動部隊が戦艦を沈めることができることを証明した戦いでもありました。
連合艦隊司令長官の山本五十六は、陸上攻撃機の力では【レパルス】は沈めれても【プリンス・オブ・ウェールズ】の撃沈は無理だろうと考えていて、まだまだ航空機の秘められた力を測りかねていました。

その後、機動部隊の護衛艦としてインド洋へ進出。
一、ニ、五航戦と高速戦艦4隻という豪華な顔ぶれでした。
3月、【金剛】【榛名】とともにクリスマス島の砲撃を行い、さらに4月には4隻揃って「セイロン沖海戦」に参加。
他の戦艦が出撃せずに控える中、存分に働きます。

「金剛型」で最も有名な戦いは、「ガダルカナル島の戦い」ではないでしょうか。
【金剛】【榛名】とともに、奪われたヘンダーソン基地破壊のための砲撃戦に参加し、合計900発以上の砲弾を発射。
驚異的なスピードで復旧はされてしまうものの、一時的に敵機能を停止させる戦果を挙げています。
「南太平洋海戦」でも陸軍支援を行うなど、1942年最大の戦いで【金剛】は輝きました。
その後の「第三次ソロモン海戦」【比叡・霧島】が沈没していますが、「金剛型」四姉妹がそれぞれ暴れまわったのはこの戦いです。

しかし以後戦艦の出番はほぼゼロと言ってもよくなり、「金剛型」も空母が出撃しないためやはり出番がなくなってしまいます。
戦いは南方海域での巡洋艦以下の艦艇による砲雷撃戦や通商破壊戦が頻発したものの、戦艦は待ち続けるしかありませんでした。
1年半ほど経過してからようやく「マリアナ沖海戦」で出番を得た【金剛】でしたが、この間に日本のパイロット練度は急激に悪化(というか教育不足)し、戦艦の出番はないまま航空戦によって壊滅的敗北を喫します。

1944年10月、史上最大の海戦である「レイテ沖海戦」では第三戦隊【金剛・榛名】をはじめ、【大和・武蔵・長門】という戦艦揃い踏みの栗田艦隊でレイテ島へ向けて出発します。
日本海軍が待ちに待ったと言ってもいい、連合艦隊による総出撃でした。
しかしその後ろは底の見えない崖、つまり囮・特攻での喪失を覚悟した背水の陣での出撃だったのです。

24日、「シブヤン海海戦」勃発。
出撃前に銀色の塗装がされた【武蔵】が空襲によって集中的な攻撃を受け、その異常なほどの頑丈さを発揮したもののついに沈没。
不沈艦「大和型」の一角を欠いてしまいます。

翌25日、なおもレイテ島目指して進軍する栗田艦隊はタフィ3戦隊と遭遇し、「サマール沖海戦」が始まります。
【金剛】は随伴艦の活躍と合わせて、【米カサブランカ級護衛空母 ガンビア・ベイ】【米フレッチャー級駆逐艦 ホーエル】【米ジョン・C・バトラー級護衛駆逐艦 サミュエル・B・ロバーツ】を撃沈させる活躍を見せました。
特に【金剛】【ガンビア・ベイ】撃沈に多大な貢献をしているようで、多数の命中弾があったと記録されています。
(この戦いの中で前に飛び出した【鳥海】に対する誤射があったという証言もあります。)

「レイテ沖海戦」の大惨敗を受けて、【金剛】はブルネイなどで一時停泊をした後、11月21日に日本への帰投が決定します。
その道中、艦隊は自軍を狙う電波を探知したのですが、【米バラオ級潜水艦 シーライオン】は突っ切ろうとする艦隊へ向けて計9本の魚雷を発射。
そのうちの1本が【浦風】に直撃。
そして2本が、【金剛】を襲いました。
当時は悪天候で、さらに「レイテ沖海戦」での損傷艦も多かったために陣形が乱れていたようです。

損傷による傾斜は12度となりましたが、退艦命令は出ずに航行を継続。
傾斜の度合いから見ても、さすがに沈没はしないだろうという楽観視がありました。
しかし当時すでに艦齢は31年。
老朽化した船体に魚雷の損傷を耐える力は残っておらず、さらに「サマール沖海戦」でも至近弾を受けていたため、【金剛】はじわじわと蝕まれていきます。
傾斜はやがて18度に達し、ようやく退艦命令が出ますがそれはすでに遅い判断でした。
機関停止、転覆、そして1番砲塔の弾薬庫の爆発。
1,300名もの人員が犠牲となりました。

30年間海の上にいた【金剛】は、酷使されつつも、戦果の乏しい日本の戦艦の中において非常に重要な存在であり、また最後まで戦いの中心にいてその使命を全うしたのです。
1940年に起工されたアメリカの最新戦艦「アイオワ級戦艦」は、大正生まれの彼女の脅威を払うことが目的の一つとして建造され、【金剛】を上回る速度を出すことが絶対の条件となっていました。
それほど、高速かつ重武装の【金剛】はアメリカにとって脅威だったのです。
その存在は他のどの戦艦も追随することのできない、帝国海軍最大の功労戦艦となっています。

2018年1月8日 加筆・修正

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金剛型戦艦 比叡⇒




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