旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


重巡 最上

重巡洋艦 最上【最上型重巡洋艦 一番艦】
Heavy Cruiser  MOGAMI 【MOGAMI-class Heavy Cruiser  1st】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
レイテ沖海戦
建 造
1931年10月27日 1934年3月14日 1935年7月28日 1944年10月25日 呉 海 軍 工 廠
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
① 8,500t
② 12,400t
③ 12,300t
① 200.60m


① 18.20m
② 20.51m
① 37.0ノット
② 34.7ノット
③ 35.0ノット
① 152,000馬力
② 152,432馬力
③ 152,000馬力
①1935年竣工時  ②1939年(改装完了後) ③1943年(航空巡洋艦改装工事後)

重巡洋艦になるための軽巡 工事に次ぐ工事 最上


1930年になると、日本は軽巡洋艦の老朽化に伴う代替艦の建造を計画していました。
「天龍型」は竣工してから10年になり、しかも3,500t級の小型設計。
「球磨型」【球磨・多摩】も5,000t級ではあるものの1920年、21年竣工でした。
軍縮の流れがあるとはいえ、このままでは国家を守る軍備が滞ってしまいます。
一方で日本は重巡洋艦を多く世に送り出し、加えて軍縮条約からの脱退の機運もくすぶり始めていました。

そこで考えたのが、重巡洋艦に改装できる軽巡洋艦の建造でした。
重巡と軽巡の差は、搭載している主砲の大きさであり、排水量などその他の要素は同じ条件になります(排水量10,000t以下)。
重巡洋艦に搭載できる最大の主砲口径は20.3センチ。
ようは20.3cm連装砲が積める軽巡洋艦を造れば、有事の際にどっちでも使えるということです。
諸外国にも「大きめの軽巡建造します、あくまで大きめの」と伝えています。
似たようなところでは、潜水母艦を空母に改装することを前提に建造していたケースもあります。

そのような狙いのもとで建造が始まったのが、【最上】をはじめとした「最上型軽巡洋艦」4隻です。
(当然この狙いは諸外国には秘密です。)
当然20.3cm連装砲搭載のための設計になるのですが、新造時に搭載するのは軽巡で積める最大口径の主砲、15.5cm三連装砲です。
スペースがある関係で、これをなんと15門も搭載(三連装砲5基)。
これだけでも世界は驚いたようで、米英は早速対抗して大型軽巡洋艦を建造しています。
一発の火力は劣るものの、そのかわり数は撃てるので、「最上型」も主砲換装をしなければ弱い、というわけではありません。

その他の設計では、当初「高雄型」に近い艦橋を搭載する予定でしたが、その設計中に「友鶴事件」が発生します。
それによって艦体の強度や復元力に大きな問題があることが発覚し、「最上型」はこの艦橋の設置を撤回。
結果的に「高雄型」とは似ても似つかぬ、非常にシンプルな造りへと変貌します。

しかし、【最上】には様々な不具合が生じます。
溶接を多用した結果生じたひずみが、主砲の旋回を妨げる。
溶接が甘く、その箇所から浸水する。
重心が高すぎたため、マストを切り詰めて対処する。
そしてこれらの修復・改善を行っているうちに、排水量は計画当初の8,500tを大きくオーバーして11,200tまでに膨れ上がります。
当然条約違反ですが、日本ではこれが半ば常態化していました。
(そもそも改装前提での建造も報告していませんし。)

ところが悲劇はこれだけでは終わりません。
竣工直後の演習では、台風に巻き込まれた結果、波の影響で多数の艦が損傷。
これが「第四艦隊事件」です。
再び強度に問題があることが発覚し、またもや【最上】は強度向上のために工事に入ります。
三番艦、四番艦の【鈴谷・熊野】はこの「第四艦隊事件」によって工期が延長、結局4隻が揃うのは計画より2年も後になりました。

そして1939年にはいよいよ主砲を20.3cm連装砲へ換装。

最上 20.3センチ
(換装された最上の主砲)

この時に余った15.5cm三連装砲は、【大和】の副砲や【大淀】の主砲として再利用されています。
これで名実ともに重巡洋艦になった、とおもいきや、実は書類上は軽巡洋艦のまま。
実は重巡、名は軽巡として【最上】は戦争に挑むことになります。

二度の衝突もへこたれない 航空巡洋艦最上誕生


【最上】は戦争中もなかなか恵まれない重巡でした。

開戦後、【三隈】とともに「バタビア沖海戦」に出撃し、【米重巡 ヒューストン】【豪軽巡 パース】を沈めることに成功するのですが、その2隻を狙って発射した魚雷が、なんと【陸軍特殊船 神州丸】と輸送船に直撃し、大破擱座してしまいます。
それだけではなく、【輸送船 佐倉丸】と第二掃海艇に至っては撃沈させてしまうという、全く喜べない勝利となってしまいました。

「ミッドウェー海戦」では、機動部隊の壊滅によりやむなく撤退が決定するのですが、「最上型」が属する第七戦隊にはその通達が伝わるのが遅く、その連絡が来た時には、壊滅直後に立てらてた夜戦反攻のためにミッドウェー島へ向けて最も進行していました。
慌てて反転する第七戦隊ですが、そこへ米潜水艦が接近していることに気づき、戦隊旗艦【熊野】が左45度一斉回頭を2回指示します。
しかしこの指示が明確に各艦にうまく伝わらず、【鈴谷】【熊野】は辛うじて衝突を免れるものの、【最上】【三隈】は盛大に衝突。
被雷したと思ったほどの衝撃で、【三隈】の左舷につっこんだ【最上】の艦首は完全にひしゃげていました。
幸い米潜水艦は魚雷攻撃をしてこなかったために事なきを得ますが、14ノットの速力で第七戦隊は第二艦隊へ合流すべく、戦場を退避します。

ところが夜が明けて翌日、【米空母 エンタープライズ・ホーネット】が空襲をしかけてきます。
合流した【朝潮・荒潮】とともにこの空襲に巻き込まれた結果、【三隈】は沈没、【最上】は4番、5番砲塔が破壊されます。
大破したもののギリギリ生還した【最上】は、その後佐世保で修理を受けることになりました。

佐世保での修理は、【最上】を新しく生まれ変わらせる改装工事にもなりました。
お陀仏になった4番、5番砲塔は換装するのではなく、新たに水上偵察機繋留用の航空甲板を設置。
発艦には射出用カタパルトを使用し、着艦は着水後、クレーンで持ち上げます。

偵察・索敵は、先制攻撃や奇襲、逆に戦線離脱等で非常に重要な行動です。
加えて着弾観測や砲撃記録など、命中率や今後の戦況分析にも使えます。
【最上】は後部に水上偵察機を11機搭載し、戦況のサポートも務めることになりました(実際に11機全て搭載したことはありませんでした)。
1943年5月、【航空巡洋艦 最上】の誕生です

航空巡洋艦 最上
(左が艦首、艦尾の上にあるのが水上機)

11月のラバウル空襲では敵機2機を撃墜するも、大破。
呉で修理を行った後、挑んだのが1944年の「レイテ沖海戦」でした。

西村艦隊に所属した【最上】は、搭載した水上偵察機で敵情を確認、報告しますが、戦況は一方的な砲撃戦となります。
【扶桑】が早々に駆逐艦の魚雷で航行不能、残った【山城・時雨】とともに戦いますが、【山城】ともども大炎上します。
【山城】はそれでも敵軍に突撃し、砲撃を続けていましたが、【最上】はさらに被弾し、艦橋にいたほぼすべての乗員が死亡してしまいます。
辛うじて舵を反転させたため、戦場からの離脱には成功しますが、【最上】の不幸は終わりません。

支援にやってきた【那智】【最上】の前を通りすぎて戦場へ突入しようとしたのですが、【那智】【最上】がゆっくりながらも航行していることに気づきませんでした。
回避しようにも間に合わず、加えて【最上】は誰も舵を握っていません。
【最上】【那智】はあえなく衝突、【那智】は大破し、結局戦場への突入を諦めています。
この衝突での【最上】の損傷は大きくありませんでしたが、それでも大惨事には変わりありません。
【最上】【那智】とともに戦場に赴いた【曙】に付き添われ、ゆっくりと離脱します。

ところが翌日には米軍の空襲が始まり、【最上】は遂に航行不能。
火災は止まらず、注水弁も破壊され、もはや打つ手なしとなりました。
乗員は【曙】に移乗し、【曙】の魚雷によって【最上】は海没処分されました。

【最上】は戦果が全く目立たないほどに不運・数奇なエピソードが多いですが、航空巡洋艦の有用性は後世に活かされ、現在の海上自衛隊の駆逐艦などに使われているヘリ甲板は、特に【最上】のそれが元祖とも言えます。


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