旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


鴻型水雷艇 隼

鴻型水雷艇
Motor torpedo boat 【OTORI class】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
一番艦
起工日
一番艦
進水日
一番艦
竣工日
同型艦数 次 級
1934年11月8日 1935年4月25日 1936年10月10日 8隻 -----
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
840t 88.5m 8.18m 30.5ノット 19,000馬力







友鶴事件を機に再設計 大型になった鴻型


「ロンドン海軍軍縮条約」の影響により、1931年から再増備が決定した「千鳥型水雷艇」
まずは「マル1計画」に沿って4隻の建造が承認されましたが、「千鳥型」は総数20隻の建造が計画されていました。
続いて1934年、「マル2計画」によって残された16隻の建造が承認され、「千鳥型」は計画通り20隻の配備に向けて着々と準備が進んでいました。

しかし一方で、軍令部はこの残った16隻の「千鳥型」に、すでに起工している4隻以上の性能を求めました。
速度を34ノットへ、主砲門数を4門へ、航続距離を16ノット:3,000海里へ、魚雷を53cmから61cmへ。
600t以下の水雷艇に、「千鳥型」でも過剰だった兵装をより強化するという要求を突きつけたのです。
当然排水量は600tに収まるわけがなく、計画を進めていくと、基準排水量は840tにまで増大していました。

いつものごとく無理難題を突き付けてくる海軍でしたが、この目論見は1隻の水雷艇が引き起こした大事件によって崩壊します。
すなわち、「友鶴事件」です。
トップヘビーだった「千鳥型」でしたが、計画では最大110度の傾斜でも復原できるとされていました。
ところが荒天・夜間での演習中、「千鳥型」【友鶴】がたった40度の傾斜で転覆してしまったのです。
状況が最悪だったため、113人の乗員のうち100名もの死者・行方不明者を出す大事件となってしまいました。

この事件を受け、当然竣工している【千鳥・真鶴】は補強工事を、建造中だった【初雁】は設計を見直すため工期を延長、また転覆した【友鶴】は引き上げ後に同様の補強工事が施されます。
そして「千鳥型」よりも強力な水雷艇に仕立て上げようとしていた残りの16隻も、1から検討し直しとなりました。

改装された「千鳥型」は排水量が増えたのも問題ですが、何よりも速度が2~3ノット低下していました。
これをもとの30ノットほどへ回復させ、更に復原性能を高める必要が、新しい「鴻型水雷艇」にはありました。
しかし設計は1から、さらに海軍の兵装要求は全部取り下げられたわけではなく、結局またもや条約の制限外となる600t以下という数値はないがしろにされ、「鴻型」の排水量は840tとなりました。

「鴻型」「千鳥型」とは少し異なる点がたくさんあります。
艦橋の天蓋は固定式となり、また測距儀は2mから3mへ変更。
主砲は同じ12cm単装砲3門でしたが、仰角が33度から55度にまで向上しています。
魚雷は新たに51cm3連装発射管を開発し、「千鳥型」の2門から1門増やすことに成功しました。
ボイラーや主機は同じものを採用していますが、タービンは高低圧2筒から高中低圧3筒に増やされて、出力が19,000馬力までアップしました。
爆雷投射機は片舷型の1基から両舷型の九四式爆雷投射機に変更され、爆雷投下台も4基から6基に増設されています。
機銃は計画時は25mm連装機銃1基の予定でしたが、竣工時には毘式40mm単装機銃1挺となっていました。

しかし排水量は上記の通り840t、船体も「千鳥型」から6mも大きくなり、小型駆逐艦としか言えない身なりになっていました。
さらに1935年には「第四艦隊事件」も発生し、「鴻型」はさらに溶接の強化やDS鋼を用いた部分補強をした結果、最終的には1,000tに迫る排水量になったと言われています。

このように制限を掻い潜るために設計されたのに、結局かなりの重量になってしまった「鴻型」ですが、悲しいことに1936年にはその足かせだった「ロンドン海軍軍縮条約」から脱退することが決定。
1937年になっても4隻が起工されましたが、もはや制限はなくなったため、小さな水雷艇に固執する必要はなくなったため、結局「鴻型」は計画の半数の8隻で建造が打ち切られました。

ただ、この翌年から海防艦を新造していくことになるのですが、役割を明確にできず性能も中途半端な状態で数年を消費してしまいます。
結果論ですが、水雷艇の性能は悪くなく、船団護衛もこなすことができたため、水雷艇の増備をやめなければよかったのではないか、という声もありました。

竣工した8隻は、4隻ずつで第一水雷隊と第十一水雷隊を編成し、早速「支那事変」に出陣しています。
小型ながらも「睦月型」と同口径の主砲を持ち、吃水が低いために浅瀬でも航行できる「鴻型」は、特に陸上に対する艦砲射撃の力を買われて活躍しました。

太平洋戦争開戦時には40mm機銃25mm機銃へ換装されており、最終的には「千鳥型」同様、3番主砲を撤去して機銃を増設。
最終的には25mm連装機銃3基、単装機銃5挺という装備だったようです。
また、【隼】以外には13号対空電探が装備されていて、対潜装備も九三式水中聴音機九四式探信儀などが装備されていました(艦によって異なります)。

終戦まで生存できたのは【雉】のみで、多くが1944年・45年に戦没。
【雉】は終戦後にソ連に引き渡され、1957年の退役まで活用されました。
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