旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


水上機母艦 能登呂

水上機母艦 能登呂
Seaplane tender NOTORO


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(処分) 建 造
1919年11月24日 1920年5月3日 1920年8月10日 1947年1月12日 川 崎 造 船 所
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
14,050t 138.88m 17.68m 12.0ノット 5,850馬力






海上が全て滑走路 水上機母艦の歴史


艦上戦闘機や艦上爆撃機など、戦局を大きく左右させる強力な機動部隊を率いる空母。
この空母が発達する前に、水上偵察機などを多数搭載できる艦艇が1910年代前半にヨーロッパで開発されます。
1910年に初めて水上機が離水及び着水に成功し、翌年にはアメリカで「カーチス水上機」が実用性を高めて海軍が制式に軍用機として採用。
またフランスも同じく1911年に、ガブリエル・ヴォアザンが開発した水上機が史上初めてセーヌ川を飛行し、こちらもフランス海軍に軍用機として採用されました。
その時、フランスはこの水上機をどんどん飛ばす方法として、水上に移動式航空基地を用意できないかと考え、早速この艦艇の設計に着手します。

当時は当然空母も存在せず、航空機は陸から加速して飛び立つものでした。
しかしまだ高揚力装置がなかった時代、飛び立つまでに必要な滑走路長が長大で、より高速な航空機を作ると、それだけ加速が必要=長い滑走路が必要というジレンマがありました。
しかし水上機となれば、滑走路なんて概念はありません。
深さや障害物さえ気をつければ、海ですからどこまででも加速することができます。
加えて舗装などの整備も不要で、港湾施設も簡易で済みます。
フロートがあるとは言え速度も当時ではかなり高速で、水上機は一気に注目を浴びる存在となりました。

フランスはこの水上機をもっと活躍させるために、上記のように水上機を搭載する特殊艦艇の設計を始めます。
フランスには小型の水雷艇を搭載する防護巡洋艦として就役していた【フードル】という船がありました。
しかし竣工当時は小型だった水雷艇も大型化し、魚雷艇を積むことができなくなってきた【フードル】は1907年に工作艦として、さらに1910年には機雷敷設艦としての設備も搭載して運用されていました。
そこへ彗星のごとく現れた水上機を見て、フランスはクレーン等の設備がすでに充実している【フードル】を更に改装することにしたのです。

1912年、軍用機採用からわずか1年で【フードル】は水上機を搭載できる姿へと変貌します。
これが、水上機母艦の誕生の瞬間でした。
当時はカタパルトは存在せず、搭載した水上機をクレーンで洋上に降ろし、そこから離水して飛び立つという手段でした。
しかし前甲板のスペースも広かった【フードル】は、1913年には滑走台を設置してそこから水上機を飛び立たす実験にも成功しています。

水上機母艦 フードル
水上機母艦 フードル

日本に水上機母艦の波が届いたのは1913年。
1905年の日露戦争時、ロシアで使用されていた元英貨物船【レシントン】を鹵獲し、【沖ノ島丸】、やがて【若宮丸】と名付けられます。
【若宮丸】は航空機用運送艦に改造されて活動を開始します。

1912年、はるか遠くの欧州で水上機母艦が誕生します。
果たして伝え聞いてからの取り組みなのか偶然なのかは不明ですが、日本でも1913年に【若宮丸】
水上機を搭載できるように小改造。
臨時で水上機3機を搭載し、秋の小演習に参加しました。
そこでの評価が非常に高かったため、【若宮丸】はさらに改造を施されて、簡素ながらも4機の水上機を搭載できる水上機母艦として新たなスタートを切りました。
そして【若宮丸】は1915年に【若宮】と改称されます。

第一次世界大戦にも4機の水上機を搭載して参加。
当時空母という概念はありませんでしたが、世界史上初めて航空機を積んだ艦艇が先頭に参加した例となりました。
1920年には第二海防艦から航空母艦へ分類が変更され、艦載機は搭載できませんが、日本初の空母として登録されることになります。
そして1931年、【若宮】は役割を終えて退役しました。

水上機母艦の礎 数多の魚雷に耐えきった能登呂


さて、【能登呂】は1920年に「八八艦隊計画」の一環として、【知床型給油艦 能登呂】として竣工。
しかし1924年には老齢艦となってきた【若宮】の後継者として、水上機母艦に改造されることになりました。

余談ですが、「知床型」「能登呂型、襟裳型」と呼ばれることもあり、合計8隻の建造が計画されていました。
本来は【能登呂】は一番艦だったのですが、早々に改造されたため二番艦の【知床】がネームシップとして扱われることがあります。
ただ、この【知床】も竣工直後(もしくは1928年)に給兵艦兼給炭艦として改造を施され、【加賀型戦艦 土佐】の主砲を運搬しています。
さらに計画された8隻のうちの1隻は【給糧艦 間宮】の建造に変わるなど、様々なエピソードがあります。

【能登呂】には【フードル】同様カタパルトは搭載されておらず、水上に水上機を降ろすスタイルでした。
「ワシントン海軍軍縮条約」の関係で、カタパルトを搭載することができなかったのです。
このための揚収用デリックは元々搭載されていたデリックを補強・延長することで対応しています。
当時の改造は大規模といえるほどのものではなく、給油艦の設備もそのまま残されていました。
それでも【能登呂】には【若宮】同様4機の水上機の搭載が可能で、さらに【若宮】よりも大型なため、給油艦と兼用できるスペースも十分ありました。

1932年は「第一次上海事変」に参加、1934年には種別も水上機母艦へ変更となり、そして1937年には本格的な改造を施されます。
これにより水上機搭載数は倍の8機、この能力を引っさげて【能登呂】「支那事変」に参加しています。
「支那事変」時は空母の本格運用がまだ間に合っておらず、【鳳翔・加賀】が参戦するに留まってました。
そのため、【能登呂】の存在は非常に頼もしいものでした。

しかし機動部隊の整備が進み、また重巡洋艦、戦艦が水上機を常時搭載できるようになってきたのもまた1930年代で、改造をされたものの、水上機母艦としての【能登呂】の役割はなくなりつつありました。
水上機母艦の中では最古参であったことも影響したのでしょう、1941年に【能登呂】は8機の水上機を下ろすことになり、輸送艦兼給油艦として、サポート役に専念することになりました。

水上機を載せることはなくなったものの、【能登呂】の仕事がなくなったわけではありません。
太平洋戦争が開戦してからも、【能登呂】は輸送任務で大きく貢献しました。

しかし1943年1月にマカッサル海峡で【米タンバー級潜水艦 ガー】の雷撃を受けてしまいます。
幸い損傷はそれほどひどくなく、シンガポールで修復の上、戦列に復帰しています。
ところが9月にまたも被雷。
トラック島沖で【米ガトー級潜水艦 ハダック】の雷撃で今度は中破してしまい、【能登呂】は本土へ帰投、因島で修復に入りました。

被害を負いながらも輸送任務をこなす【能登呂】でしたが、1944年6月にはシンガポール沖で【米ガトー級潜水艦 フラッシャー】の魚雷を3発も受けて大損害を負います。
航行不能となった【能登呂】は曳航されて(曳航船不明)シンガポールに入り、三度修理を受けることになりました。
ところが不運は続き、11月には米軍の航空爆撃によって【能登呂】は大破、「レイテ沖海戦」でも完敗した日本に、シンガポールの【能登呂】を連れ戻す・復帰させる手段は残っていませんでした。
残念ながら【能登呂】はこのままシンガポールに放置されることになってしまいます。
【能登呂】はそのまま終戦を迎え、1947年までその場にとどまり、やがてイギリスの手によって海没処分されました。

3回も雷撃を受けながらも沈没しなかったことを誇るべきか、3回も雷撃を受ける不幸を嘆くべきか難しいところですが、【能登呂】は以後の日本の水上機母艦運用の礎を築いた重要な船です。
【能登呂】以後、日本は水上機母艦を輸送艦として活用したり、特設水上機母艦などの商船改造技術、また短期間での空母改造を前提とした特殊な計画など、水上機母艦の有用性がどんどん生み出されていったのです。


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