旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


水雷艇 千鳥

千鳥型水雷艇
Motor torpedo boat 【CHIDORI class】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
一番艦
起工日
一番艦
進水日
一番艦
竣工日
同型艦数 次 級
1931年10月13日 1933年4月1日 1933年11月20日 4隻 鴻型水雷艇
公試排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
615t

815t
82.0m 7.4m 28ノット 11,000馬力









駆逐艦に役割を奪われるも、法の網をくぐり再登場 水雷艇


水雷艇の歴史は古く、駆逐艦誕生以前から欧州で活躍していました。
18世紀の海上戦は、接近して砲撃を交わし、最後には体当たりで相手の急所を貫く戦いが主となっていました。
つまり、勝とうが負けようが突撃は立派な手段だったのです。

やがて艦種は徐々に増えていき、戦いの方法も突撃以外の方法を取るようになってきます。
その1つが、外装水雷です。
外装水雷とは、機雷を棒の先に設置し、船体同士がぶつかる前にこの爆弾で敵船体を破壊する攻撃手段でした。

その後、この外装水雷を搭載した小型の船艇がノルウェー海軍の依頼により、1873年にイギリスが建造しました。
イギリスはこれをきっかけに、外装水雷を主兵器とした小型の船艇を専用に建造することにします。
そして1876年にはイギリス海軍によって、水雷艇と銘打たれた【HMS ライトニング】が建造されました。

一方、一撃必殺の超兵器「魚雷」も、この時期に開発が進んでいました。
1860年代からオーストリア・ハンガリー帝国で、当初は陸上からロープを引っ張って動かす富裕兵器としての開発でした。
この兵器の開発は問題山積で事実上失敗となったのですが、開発者のルッピスとホワイトヘッドはこの研究を継続し、やがて圧縮空気による自航可能な兵器の開発に成功。
これこそが「魚雷」です。

オーストリア政府はこの魚雷の開発に投資をすることを決定。
1870年から魚雷工場が稼働し、速度も距離もどんどん改善されていきました。
まさに蟻が象を倒す兵器だった魚雷は、小型の船体で大型の装甲艦や戦艦クラスの船に致命的なダメージを与えることができるため、瞬く間に注目を浴びます。
1881年までに10カ国に輸出され、1890年にはついに30ノットまで出るようになります。

この魚雷の開発により、水雷艇の装備も外装水雷から魚雷に移り変わりました。
そして水雷艇は、大型艦を所有できない国にとって重要な存在となります。
逆に大型艦を所有できる、いわゆる海軍大国と言えるイギリスやフランスなどは、この小型の水雷艇を多数搭載できる水雷艇母艦という船の建造も進んでいました。
水雷艇は航続距離が短く、また凌波性も劣悪なので、沿岸での戦いはともかく、少し遠洋に出てしまうとそこまでたどり着くことすらできません。
そのため、水雷艇母艦がいると単純に戦力が増えますし、肉薄して魚雷を攻撃できる水雷艇の存在は貴重でした。

日本にも1880年にイギリスから水雷艇4隻を購入し(この時はまだ外装水雷)、その後各国から続々と水雷艇を輸入。
水雷艇は1894年の「日清戦争」までに計24隻導入され、「威海衛の戦い」で初実戦を経験しました。
まだ艦艇の建造技術が欧米に比べてかなり劣っていた日本は、研究を続ける一方で、水雷艇の輸入を休めることはなく、続く1904年の「日露戦争」の頃には大小他メーカー入り乱れて89隻の大所帯となっていました。

さて、水雷艇がどんどんと海上に浮かぶようになると、その恐ろしい魚雷の威力を封じ込める必要がでてきます。
なにしろ戦艦は国の威信と言ってもいい存在です。
戦艦同士の戦いでの名誉の撃沈ならまだしも、どこの馬の骨とも知らない小さな船に沈められたなんて口が裂けても言えません。
戦艦を守るために、その戦艦を脅かす水雷艇は邪魔でしかありませんでした。

そこで開発されたのが「駆逐艦」です。
駆逐艦の歴史については大まかにこちらでご紹介していますが、小型の水雷艇をわざわざ大口径の戦艦や装甲艦の主砲で狙っていては非効率です。
そのため、水雷艇の速度に負けず、水雷艇の防御を貫く主砲、そして何よりも、水雷艇の主兵装である魚雷も搭載した、新しい艦種の開発が進みました。

この結果、水雷艇が強化されて、かつ小型の駆逐艦が一気に普及していくことになります。
そして同時に、駆逐艦にお株を奪われてしまった水雷艇は急速に勢力を萎めていくことになりました。
日本でも駆逐艦の輸入、さらに建造が進み、水雷艇の導入は「日露戦争」を境にパッタリと途絶えてしまいます。
1924年には艦艇類別標準からも水雷艇は削除されました。

時を経て、1930年に「ロンドン海軍軍縮条約」が締結されます。
これは「ワシントン海軍軍縮条約」では制限のなかった駆逐艦にも保有制限が及ぶようになり、特に駆逐艦の性能で世界有数の存在となっていた日本は困り果てます。
そこで再び着目を浴びたのが、何を隠そう水雷艇です。
誕生当初の水雷艇は魚雷さえ撃てればいいという存在でしたが、当時とは要求が違います。
技術の進歩もあったため、改めて注目された水雷艇は魚雷以外の兵装も強化できるとされました。

日本ではこの後ご紹介する「千鳥型水雷艇」や、別項の「鴻型水雷艇」、またフランス・ドイツ・イタリアや他の欧州諸国でも水雷艇がどんどん建造されるようになりました。
(仏独伊はロンドン海軍軍縮条約に批准していませんが、コスト面などで水雷艇を採用。)
水雷艇はその後も対潜装備となるソナー爆雷、また対空機銃を搭載するなど、もはや小型駆逐艦と言い換えることができる存在へ進化していくことになります。

身の丈に合わない強力武装 友鶴事件を引き起こした千鳥型


「ロンドン海軍軍縮条約」では、600t以下の艦艇への制限はありませんでした。
そのため日本は、この抜け道を使って再び水雷艇の増備に踏み切りました。
当初は1,400t級の「初春型・白露型」16隻と、1,000t級の駆逐艦32隻の建造が計画されていましたが、この「ロンドン海軍軍縮条約」によって計画は頓挫。
1,400t級は12隻となり、また1,000t級は完全に中止。
この中止分の補填として、527tの水雷艇、「千鳥型水雷艇」建造を12隻要求、まず4隻の建造が認められました。

しかしこの「千鳥型水雷艇」の兵装は強力で、魚雷は4門に加え予備魚雷4本の総搭載数8本、主砲が12.7cm単装砲塔3門と、門数こそ違えど、「睦月型」よりも口径の大きな主砲を積んでいました。
基準排水量は最終的に535tとなり、二等駆逐艦の「若竹型」(820t)よりも軽いにも関わらず、「若竹型」以上の兵装重量となりました。

兵装の超重量とは裏腹に、排水量を満たすために軽量化に努めました。
電気溶接や軽合金を採用し、リベットも小型化、またトップヘビーとなってしまいましたが、復原性能も当時の研究から算出された数値では十分満たせていると考えられていたため、これも小型化に貢献していました。

構造は艦首や艦橋をはじめ、全体的に「吹雪型」を思わせる形状で、速度は30ノット、爆雷も18個装備していましたが、機銃は12.7mm単装機銃が1挺だけでした。

このような形で誕生した「千鳥型水雷艇」ですが、進水直後の重心検査の時点ですでに重心が計画よりもかなり上に上がっていました。
対策として40tのバラストを搭載したのですが、それでも転舵をした際に転覆の危険性があるほどの大きな傾斜を起こしてしまいます。
改善のため、艦橋直下から後部の2番砲塔までの大きなバルジを取り付けて再度復原性を高めましたが、結果、公試排水量は731t(【千鳥】の場合)となってしまいました。

こんな状態でも「千鳥型」の建造は海軍の要求を満たすというただ1点のために継続され、そして1934年に「友鶴事件」が発生するのです。
計画では110度ほどの傾斜でも復原されると見込まれていたのですが、3月12日の夜間演習中、荒天の中で【友鶴】が転舵をした時、たった40度の傾斜でそのまま元に戻ることなく転覆。
夜間、荒天という悪条件も重なり、総員113名中100名が死亡もしくは行方不明となる大事件になってしまいました。

原因は明らかで、過剰な兵装と異常なトップヘビーの構造でした。
4番艦の【初雁】はまだ建造中だったために下記の改装工事は建造段階で行われ、1番艦【千鳥】、2番艦【真鶴】は即刻、転覆した3番艦【友鶴】は事故後の復旧工事と同時に施されます。

・バルジ撤去
・バラストキールを取り付け、またキール内に新たに98tのバラストを追加
・艦橋を一層低くする
12.7cm単装砲塔12cm単装砲へ換装
・魚雷発射管を4門から2門へ、魚雷搭載数も2本へ減少
・伝声管の撤去

この結果、復原性は改善され、また兵装重量も削減できましたが、船体本体の重量は大幅に増加。
公試排水量は815tにまで膨れ上がり、速度も28ノットに低下します。

さらに1935年には「第四艦隊事件」が発生。
この事件の影響は幸い大きくはなかったものの、それでも補強がなされた影響で、速度がさらに1ノット低下した27ノットになったと言われています。

1937年からは「支那事変」が勃発し、「千鳥型」の4隻もこの戦争に参加します。
この頃から機銃の増備が都度行われるようになり、改修工事完了時は13mm機銃1挺だったのに、1944年の時点では13mm機銃25mm単装・連装機銃も多く装備されていました。
(最終的には13mm機銃は全撤去されている船もあります。)
また機銃の増備に合わせて、各艦3番砲塔は撤去されていました。

太平洋戦争では「千鳥型」は主に船団護衛を任され、海防艦と同じような役割で活躍。
終戦時の残存は【初雁】のみでしたが、各艦終戦間近まで奮闘し、日本を影から支え続けました。
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