旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


工作艦 明石

工作艦 明石
Repair ship AKASHI


起工日 進水日 竣工日 退役日(除籍) 建 造
1937年1月18日 1938年6月29日 1939年7月31日 1944年5月10日 佐世保海軍工廠
排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
10,500t 158.5m 20.56m 19ノット 10,000馬力






本土不要の高性能洋上工廠 明石


工作艦についての簡単な歴史については、【朝日】をご覧ください。


長らく工作艦の新造に消極的だった海軍ですが、1931年、10,000t級の新造工作艦の構想案が提出され、さらに3年後の1934年にようやく予算が下りることになりました。
その間に燻っていた戦争の火は徐々に勢いを増し、1936年には日本は米英に抑圧された「ロンドン海軍軍縮条約・ワシントン海軍軍縮条約」より脱退を決意します。
これにより、長らく後回しにされてきた工作艦の新造にもようやく風が吹きはじめます。

ところが吹き始めた風は強風であり、いざ必要となった時には早々に工作艦の出番が求められていました。
1937年の「支那事変」の勃発です。
新造工作艦となる【明石】は1937年1月に佐世保工廠で起工するのですが、当然この戦争にすぐに間に合うはずがありません。
緊急対策として、予備艦として活動していた元戦艦の【朝日】を工作艦に改造することが決定。
この【朝日】には1931年から一部の工作設備が搭載されており、また大型であったことからうってつけでした。
【朝日】はたった1週間の改造工事で工作艦へ種別変更され、早速上海で仕事に取り掛かりました。

1937年から建造が始まった、唯一の新造工作艦【明石】
しかし日本はこれまで明確な工作艦を建造した歴史がありません。
そこで先輩であるアメリカやイギリスの工作艦を徹底的に調べることから、【明石】の歴史は始まります。

目標とされたのは【米工作艦 メデューサ】
アメリカは当時工作艦に分類される船を13隻も所持しており、少なくともこれと同程度の工作艦は必要だと判断されたのでしょう。
速度は19ノットと艦隊に随伴できる速度が求められ、また自衛兵器として12.7cm連装高角砲4基と25mm連装機銃2基を搭載。
艦艇の絶対数が少なかった日本は、護衛対象となる【明石】自身にもそれなりの能力を与えることで
危険排除を図ったのです。

さて、【明石】の真髄である工作能力とその設備について触れていきます。
【明石】には大小様々な工場設備が備わっており、その数実に17。
溶鉱炉、鍛冶工場をはじめ、当然それらを部品に加工する製造設備も完備。
他には木工工場も併設され、材料さえ揃えば、修理部品から兵器の新造、一から十まで全てがこの【明石】の中で完結できるという素晴らしい性能を誇っていました。
さらにこの工作機械も大変優秀なもので、本土でも高価なためにほとんど扱われていなかったドイツ製の工作機械も採用しています。
ブランドに恥じない性能を発揮し、ものによっては【明石】のほうが内地よりも修復能力が高いものもあったほどでした。

甲板は平甲板でできるだけ構造物を減らし、露天作業面積を確保。
工作艦としての大きな特徴である5つのクレーンは、最大のものが23tクレーンで、他にも5tクレーンと10tクレーンが各2基ずつ搭載されていました。
また艦内にも3tクレーン2基、5tクレーン1基と、合計8基ものクレーンを抱える大型移動工廠となりました。

他には2つの異なる役割を持つ煙突。
後部煙突は主機であるディーゼルと補助缶からそれぞれ発生する排煙用の煙突、前部煙突は【明石】の各工場で発生する排煙用の煙突。
煙の出処が違う複数煙突を有する船もまた珍しいものでした。
またその工場の稼働に必要な発電設備については、排水量6倍の【大和】と同等の4,800kwの発電能力を持っていました。
それでいて3ヶ月間無補給で活動できることが目標とされていて、停泊していることが多いとは言え燃費もかなりよかったようです。

これら高性能設備の充実の結果、連合艦隊の年間修復工数35万のうちの40%が、計算上【明石】1隻でこなせるほどの能力を有することになります。
残りの6割を本土の各工廠で割り振ると考えますと、単純計算で日本で一番修理設備が優れているのは、洋上工廠である【明石】ということになってしまいます。
それほど【明石】には財が注ぎ込まれたのです。

注ぎ込まれたのは財だけではありません。
乗員779名のうち半分以上の443名が工員で、この船に求められたものがいかほどのものかが想像できます。
そしてこの中には軍所属ではない民間人も多数含まれていました。
【間宮・伊良湖】では料理人も海軍所属でしたが、こちらは官民共同でそれぞれが役割を全うしていたようです。
実際軍属と民間時の間に障壁や上下関係はなかったようで、勤務態度も内地の工廠よりも評判がよかったという証言もあります。

ご紹介したとおり、大変優秀な力を与えられた【明石】は1939年7月に竣工。
【明石】は補助艦艇ながらも最後の観艦式となった「紀元二千六百年特別観艦式」にも参加しています。
そして1941年12月、すでに活動を始めていた【朝日】や他の特務工作艦とともに、太平洋戦争に臨みます。

「なによりもまず明石を沈めろ。最重要目標だ」


緒戦は優勢だった日本ですが、被害がないわけではありません。
他の工作艦とともに、【明石】は開戦直後から南方海域を走り回って仕事に没頭します。
しかし1942年5月に【朝日】【米サーモン級潜水艦 サーモン】の魚雷を受けて沈没。
当時【朝日】は老齢から8ノットしか速度が出ておらず、かなりムリをして動かしていたことが伺えます。

老齢とは言え任務を着実にこなしていた【朝日】を失い、【明石】にかけられる期待はますます高まります。
しかし翌6月には「ミッドウェー海戦」で空母4隻を一夜にして失います。
この時に【明石】が修理を行ったのは、艦隊行動中に衝突して艦首を圧壊した【最上】でした。
【明石】はトラック泊地にて【最上】に仮艦首を接合、その後8月5日に【雪風・時津風】に護衛されて両艦は一度呉へ戻ることになりました。

18日、【明石】は再びトラック泊地へ戻り、そして以後はこのトラック泊地を拠点として修復作業を行うことになりました。
当時トラック泊地は南方海域の日本における最重要拠点であり、多くの船がここを出発し、そしてここへ戻ってきました。
3,000tの浮きドックも持っていた【明石】は、海防艦などの小艦艇の修復にも適していました。
【明石】は日夜、傷つきながらも戦う意志を失わない艦艇に再び力を与えていくのです。

工作艦 明石
トラック泊地にて横付けした船を修復する明石(中央の一番大きな船)

このように次々と負傷した船を治癒していく【明石】の存在は、アメリカからしたら大変厄介な存在でした。
空母は半数を退けましたが、無謀とも勇敢とも言える日本艦艇がこの【明石】の手によって次々と戦場に送り込まれるのです。
いつしか【明石】はアメリカにとって最重要攻撃目標にまでなってしまい、日米ともに戦況はこの【明石】にかかっていると言っても過言ではない状態でした。

劣勢になりながらも【明石】は懸命に修復作業を続けていましたが、いよいよ戦火はこのトラック泊地にも降り掛かってきました。
1944年2月、トラック島が空襲にあい、様々な船が大きな被害を受ける中、【明石】にも爆弾が投下されました。
幸いにもその爆弾は不発弾でしたが、【明石】は長い間滞在し続けたトラック島に別れを告げ、他の駆逐艦らとともに近くのパラオまで避難することになります。

しかしこのパラオも安寧の地とはなりませんでした。
およそ1ヶ月半後の3月30日、今度はパラオでも大空襲が発生します。
この空襲では脱出が間に合っていなかった補助艦艇が大きな被害を受け、朝からの執拗な空襲で【明石】もついに被弾。
被害は積み重なり、発生した火災は遂に手がつけられないほどの大規模なものになっていきます。
浅瀬だったために沈没はしませんでしたが、夜になっても重油に引火した炎は収まる気配がなく、大破着底。
事ここに至り、【明石】は放棄されることになりました。

これにより、日本は頼みの綱だった現地修理の手段を失います。
突貫で【特設測量艦 白沙】を工作艦へ改造するのですが、当然【明石】に並び立つわけがありません。
修理のためにはほとんどの船が現地帰投を余儀なくされ、戦力低下がより露呈することになりました。
【明石】放棄までに、【明石】の修理を受けた艦艇数はなんと300隻を超えると言われています。

ちなみに、【明石】「ミッドウェー海戦」後の「改マル5計画」において姉妹艦【三原・桃取】の建造が計画されたのですが、戦況の悪化によって優先度が下がり、結局着手されずに立ち消えとなっています。

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