旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


戦艦 陸奥

戦艦 陸奥【長門型戦艦 ニ番艦】
Battleship  MUTSU 【NAGATO-class Battleship 2nd】


起工日 進水日 竣工日 退役日(爆発)
柱島泊地
建 造
1918年6月1日 1920年5月31日 1921年10月24日 1943年6月8日 横須賀海軍工廠
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
① 32,720t
② 39,050t
① 215.80m
② 224.50m
① 28.96m
② 32.46m
① 26.5ノット
② 25.3ノット
① 80,000馬力
② 82,000馬力
※①1921年竣工時  ②1936年(大改装完了後)

姉に続け 完成と言いはり、陸奥誕生


【長門】が起工した翌年、今度は横須賀で、妹の【陸奥】が起工されました。
1920年に竣工した【長門】の登場が世界を驚かせたため、【陸奥】にも同様、いやそれ以上の期待感が込められて、建造は続けられました。

しかし、そんな【陸奥】が突如廃艦の危機に襲われます。
あまりにも優秀だった【長門】を見た英米が、「ワシントン海軍軍縮会議」を開催し、軍艦の建造数を制限することにしたのです。
その条約の中には、「未完成艦は廃艦とする」という条文がありました。
誰とは言いませんが、【陸奥】を意識した条文であることは明らかでした。
(英米側も廃艦対象になる艦はいました。)

当時【陸奥】の完成度は6~8割ほどと言われており、進水はしていましたが、装備品の配備がまだできていませんでした。
日本としては、ここまで建造した【陸奥】をたった一文で廃艦にされてはたまったものではありません。
日本側は【陸奥】が完成していると言いはり、突貫工事を行い、強引に海軍へ引き渡すなど、あらゆる手をつくして【陸奥】を守りました。
英米側はそれでも未完成としての認識を改めず、立入検査をするなどしてなんとか証拠をつかもうとしましたが、日本は妨害工作でこれを阻止。
ついにその尻尾をつかむことができず、【陸奥】は無事、本当に完成することができました。

しかしその代償として、英米はそれぞれ「英ネルソン級」2隻、「米コロラド級」3隻の保有が認められ、日本の1隻を守った結果、敵艦を5隻増やすことになってしまったのです(条約では軍艦保有比率が決定されていたため、日本の保有数が増えれば、その分英米の保有数も必然的に増えます)。

41cm連装砲を装備する「世界のビッグ7」は、条約以前は実は【長門】とアメリカの【コロラド級戦艦 メリーランド】のみでした(【メリーランド】は計画時は35.6cm連装砲だったものを、【長門】を意識して40.6cm連装砲へ換装)。
しかしこの【陸奥】の完成によって、廃艦予定だった【コロラド級戦艦 コロラド、ウェストバージニア】の建造は続行(【ワシントン】は廃艦)となります。
当然主砲は40.6cm連装砲です。
イギリスの【ネルソン級戦艦 ネルソン・ロドニー】は、条約後に建造が始まり、やはり40.6cm連装砲を装備。
(ただし、「ネルソン級」は英戦艦史の中ではわりと失敗作です。条約の内容も含め、イギリスの世界的地位はこの時点でアメリカに並ばれてしまいました。)
二大巨塔の一角になるはずだった【長門】は、妹たる【陸奥】の誕生により、その地位を捨てたのです。

人気度は姉以上 子どもが最初に知る戦艦に


なんとか完成にこぎつけた【陸奥】は、その瞬間から日本中で大ブームを巻き起こします。
まず、【陸奥】は進水式の際に皇后陛下にご臨席賜り、その豪華絢爛な光景は教科書にも掲載されていました。
少年たちはその教科書で【陸奥】を知り、みんなが【陸奥】の絵を書いて乗員になることに憧れを抱いていたのです。
また、先のような廃艦の危機は連日日本でも話題となっており、より【陸奥】の名は知れ渡るようになりました。
さらには、建造は人口の多い横須賀とあって、呉で竣工した【長門】よりも大勢の国民が【陸奥】を一目見ようと各地から集まってきたのです。

「陸奥と長門は日本の誇り」

カルタでも歌われたこの言葉通り、誰もが【陸奥】【長門】に日本の未来を託していたのでした。

さて、【陸奥】は妹思いの戦艦でもありました。
先の「ワシントン海軍軍縮条約」によって、実は守ることのできなかった戦艦がいます。
【加賀型戦艦 加賀・土佐】です。
「加賀型戦艦」は、「長門型」の三番艦、四番艦として登場する予定でしたが、「ユトランド沖海戦」を教訓に、より重厚で最新鋭の技術を取り入れることになったため、「加賀型」として独立することになりました。
ところが、条約によって戦艦の保有数は制限され、未完成だった【加賀・土佐】はともに廃艦が決定してしまいます。
【加賀】【天城型巡洋戦艦 天城】の大損傷により急遽空母へと改装されたため、延命していますが、【土佐】は遂に未完成のまま、標的実験艦として沈んでしまいました。
【陸奥】は1936年の大改装の際、この2隻が搭載する予定だった41cm連装砲改良版を換装し、妹達の意思を継いでいます。

日本戦史の大きな謎 陸奥、突然の爆沈


順風満帆な【陸奥】でしたが、いざ本職となると、姉同様に出番のない日々に悩まされることとなります。
「ミッドウェー海戦」【長門】とともに待機することになり、世界最強の機動部隊は一気に壊滅してしまいます。
続いて「第二次ソロモン海戦」に出撃する【陸奥】でしたが、今度は重巡洋艦の速度についていけないため、護衛の白露型駆逐艦3隻とともに後方でまたもや待機。
25ノットは決して遅くはありませんが、この時編成されたのは高速の重巡洋艦部隊。
彼女らはみな30ノットを超える速度が出せたため、編成するなら高速戦艦の「金剛型」以外になかったのです。
「お国のために」と勇んで戦地に赴いた兵士たちの落胆ぶりは、はたから見ていても気の毒で、かける言葉の一つも浮かばなかったほどだといいます。

結局「第二次ソロモン海戦」も出番のなかった【陸奥】ですが、その最期は唐突かつあまりにも呆気ないものでした。

1943年6月8日、広島湾の柱島泊地にて停泊中の【陸奥】の3番砲塔が、突然大爆発を起こします。
その衝撃はあまりに凄まじく、360tもの砲塔が艦橋の高さほどまで吹っ飛び、船体は真っ二つ、あっという間に沈没してしまいました。
隣で停泊していた【長門】は、【陸奥】の突然の爆沈を米軍の潜水艦魚雷によるものと判断し、すぐさま離脱、のちに救助艇を送り出しています。
同じくおよそ1kmほど南で停泊していた【扶桑】からも「陸奥爆沈ス。一二一五」と発信され、爆沈の時間がおよそ12時10分頃であることが判明しています。
死者数のべ1,121人、死者の大半が溺死ではなく爆死であることから、いかにこの爆発の衝撃が恐ろしいものであったかがわかります。

爆沈後、様々な検証が行われましたが、どうしても原因は突き止めることができず、諸説のすべてが推測の域を出ていません。
一時【陸奥】の浮揚と再戦力化が検討されましたが、海底にある【陸奥】の姿は見るも無残であり、とても復活できそうな状態ではなかったそうです。

【陸奥】の爆沈には緘口令が敷かれます。
当時日本の戦況は急激に悪化し、その上国民的人気であった【陸奥】が、戦地ではなくあろうことか日本国内で爆沈とあっては、国民の心情やいかにという配慮がなされたためです。

日本の誇りであった【陸奥】は、その期待に応える機会もないまま、誰もが想像もしなかった最期で歴史に幕を下ろしたのでした。


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