旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します




駆逐艦 橘【橘型駆逐艦 一番艦】
Destroyer  TACHIBANA【TACHIBANA-class Destroyer 1st】

※橘型の艦の順序は一部曖昧なところもあり、別番号の表記が見受けられることがあります。

起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
函館空襲
建 造
1944年7月8日 1944年10月14日 1945年1月20日 1945年7月14日 横須賀海軍工廠
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
1,350t 100.0m 9.35m 27.8ノット 19,000馬力







より早く、より安く、より多く 最後の量産型駆逐艦 橘型


戦況の悪化によって「松型」の一番艦【松】の建造が開始されたのは1943年8月。
当時はガダルカナルでの敗北を筆頭に、アッツ・キスカ島の放棄などによる北方海域の占領地域縮小と、日本は劣勢を挽回することができずにいました。
特にガダルカナル島を巡る戦いで、日本は数多くの主力の駆逐艦を失い、水雷戦を戦いの基盤としている帝国海軍としてみればこの状況はかなりの痛手でした。
そこで本来任されるべきではない輸送任務すら担っていた駆逐艦を本来の任務に戻すべく、主に輸送用として「丁型駆逐艦 松型」が建造されることになります。

ところが、一番艦【松】が竣工したのは1944年4月。
以降の「松型」はおよそ6ヶ月ほどで竣工はしていましたが、この6ヶ月があまりにも大きい空白期間であることを日本は思い知ることになります。
ちょうど「松型」が起工した頃、アメリカは建造中の空母の竣工ラッシュが始まるところでした。
正規空母・軽空母ともに続々と海上に姿を表すようになり、また新たに「護衛空母」という、小型・低速・少艦載数ながらも建造期間が非常に短い空母も登場しました。
この護衛空母は主に輸送船団に随伴し、航路に敵が現れた場合は他の護衛艦とともにこの艦載機が敵を排除します。

加えて海中にはもう一つの天敵、潜水艦がいます。
潜水艦を仕留めるのは主に速度と操舵性、装備に優れる駆逐艦の役割です。
そしてその潜水艦もまた、日本の占領海域に続々と押し寄せており、空海の敵により駆逐艦の損耗が著しかった日本にとって、とにかく駆逐艦の増備は急務でした。
そこで、「松型」の工期をさらに短縮することが求められます。
これが「改丁型 橘型」誕生の時代背景となります。

「橘型」は工期短縮の手段として、これまで「駆逐艦」建造のノウハウの中でその短縮方法を模索していたところから、さらに幅を広げた「艦艇」建造全ての工程においての短縮方法を探しだすことにします。
そこで目をつけたのが、「海防艦」でした。
「海防艦」の定義ははっきりしておらず、また諸外国によって認識の違いがありますが、日本における海防艦は簡単に言うと「低排水量・重武装・少航続距離・低速」の護衛艦といえる存在でした。
護衛する対象は港であったり船団であったりと様々ですが、自身が戦地に赴くことはなく、現れた脅威を排除する盾のような役割を担っていました。

この「海防艦」もまた、工期短縮のためにあらゆる手段が施されており、「橘型」は先に実行されていたこの短縮方法を参考にすることになります。
主に「鵜来型海防艦」をベースとし、船体は基本的に直線中心、船尾はこれまで丸みを帯びていましたが、かまぼこを切ってひっくり返したようなまっすぐの形になりました。
艦首のフレアも直線、ダブルカーブド・バウも消滅し完全に直線。
工作などでは粘土を整形するための前準備としてある程度の形に切り落としますが、まさにそのような状態が船体に採用されました。

また、「松型」でも一部使われていた溶接を全面採用に変更。
ブロック工法も駆使し、重いものの溶接に向いている普通鋼を材料にすることで、より工期短縮を目指しています。

これらの努力により工期はさらに短縮され、「橘型」建造最短5ヶ月を実現しました。
この船体の直線化は速度低下・凌波性低下の懸念があったものの、その心配は杞憂に終わり、ほとんど影響はなかったそうです。

「橘型」は続いて兵装にも変化があります。
どうにも精度が低かった九三式聴音機九三式探信儀に代わり、新たに三式探信儀四式聴音機が搭載され、潜水艦対策が求められた「橘型」の大きな武器となりました。
電探は22号水上電探13号対空電探を引き続き採用、急造ながらも役割を果たすために必要な装備はどんどんつぎ込まれました。

そして一番艦【橘】が1944年7月に起工。
建造計画がその時々で大きく変わり、「松型・橘型」は合わせて最大で74隻の建造計画がありましたが、最終的に竣工したのは32隻。
そのうち14隻が「橘型」です。
しかし時代はあまりにも急激に変化しており「橘型」がもたらした恩恵というのはごく僅かでした。
むしろこの日本の動きは戦後の造船技術の向上に役立つことになります。

遅すぎた誕生 建造経緯を果たすことなく沈没


【橘】は1945年1月に竣工し、第十一水雷戦隊に配属となりましたが、もう当時は他の艦も外洋に出る機会がほとんどなく、先に竣工している「松型」の残存艦も日本国内や近海が活動拠点となっていました。
【橘】も3月15日に【椿・櫻・楢・欅・柳】と第五十三駆逐隊を編成し、4月には第三十一戦隊に配属となりますが、その後「回天標的艦」になるなど、当初の目的を果たせる余裕は到底ありませんでした。

5月7日、【柳】とともに大湊警備府へと異動になり、津軽海峡付近の対潜哨戒にあたります。
6月11日には、5月11日に占守島付近で攻撃を受けた【海防艦 八丈】【柳】とともに舞鶴まで送り届けました。

その後も大湊・函館を中心に活動していましたが、7月14日、北海道や東北を標的としたアメリカの函館空襲に巻き込まれます。
投錨していた【橘】はおびただしい数の艦載機を発見してすぐさま反撃体制に入りましたが、しばらくもしなういちに落とされた爆弾が艦中央部に直撃。
この被害は【橘】を真っ二つに引き裂き、やがて沈没してしまいました。


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