旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します




駆逐艦 梨【橘型駆逐艦 十番艦】
Destroyer  NASHI【TACHIBANA-class Destroyer 10th】

※橘型の艦の順序は一部曖昧なところもあり、別番号の表記が見受けられることがあります。

起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
平群島
建 造
1944年9月1日 1945年1月17日 1945年3月15日 1945年7月28日 川崎造船所
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
1,350t 100.0m 9.35m 27.5ノット 19,000馬力







一度沈みながらも、再び海原を駆け巡ることができた幸運艦


【梨】は日本の海軍史上でも非常に稀有な存在です。
【梨】は帝国海軍所属の戦闘艦艇としては唯一、海上自衛隊に所属することができた船なのです。
ちなみに掃海艇や特務艦を含めると少数ですが他にも存在します(【砕氷船 宗谷】が有名です)。

さて【梨】ですが、3月15日に第十一水雷戦隊に配属され、他の艦同様瀬戸内海で訓練を行っていました。
【梨】は3月26日に発動した「天一号作戦」に当初は参加予定でしたが、これは中止となり、4月には山口県の八島へ移動します。
5月21日は【萩】とともに第三十一戦隊、第五十二駆逐隊に編入、また同時に海上挺進部隊にも所属することになりました。

7月からは悪名高き「回天搭載艦」へと改装され、場所を「回天」の基地がある平生へ移します。
燃料不足が叫ばれる中、悲しいかな戦う術として「回天」を背負った【梨】には優先的に燃料が回されました。

7月28日、【梨】は平郡島沖で停泊しているところを米軍に急襲されます。
この時攻撃を仕掛けてきたのはグラマンF6F戦闘機(通称ヘルキャット)
つまり本来なら敵機を撃墜するのが役割の戦闘機に攻撃されたのです。
朝から昼にかけてひっきりなしにやってくる米軍の攻撃に翻弄された【梨】は、何発ものロケット弾を被弾します。
最後に受けたロケット弾は弾薬庫に直撃し、そこから火災や浸水による被害が増大しました。
その被害に耐え切れずに【梨】はついに沈没。
死者、行方不明は合わせて60名にのぼりました。


時を進めて1954年。
朝鮮戦争による特需などもあり、日本は焼け野原になった国土から急速に回復を続けていました。
まだ一般社会への恩恵は乏しかったものの、失われていた企業の力、そして何よりも雇用が増え始めていました。
(アメリカへ支払う様々な名目のお金が必要だったため、国家財政としてはまだまだ火の車でした。)

そんな中、日本は需要が高い鉄資源の確保のために動いていました。
旧帝国海軍の船の解体はほとんど終わっていたため、新しいスクラップを探さなければなりません。
そこで浮上してきたのが、瀬戸内海の比較的浅い場所に沈んでいる【梨】でした。
9月21日、浮揚された【梨】は10年ぶりにその姿を現しました。
そしてその姿は、10年間海中に没していたとは思えないほど、航行当時のままだったそうです。

調査の結果も良好で、スクラップどころか船本来の力すら発揮できるほどだった(機器類は当然修理が必要です)【梨】は、本当に船としての再利用の議論が沸き起こりました。
しかし再利用できるとはいえ、もともとの用途から【梨】はすでに民間へ払い下げられていたので、改装だけでなくその船を再度買収するコストもかかってきます。
それにもかかわらず当時の防衛庁が【梨】復活を目指したのは、一説には「海上自衛隊は日本の海を守り続けてきた帝国海軍の意思を受け継ぐものである」ということを証明したかった、とも言われています。
そして【梨】は正式に国が買い上げることになったのですが、このような経緯もあり、国会では野党に厳しく追求を受けたようです。


護衛艦 わかば

護衛艦 わかば
Destroyer  WAKABA


浮揚 就役 再就役 退役日(除籍) 修 復
1954年9月21日 1956年5月31日 1958年3月26日 1971年3月31日 呉造船所
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
1,250t 100.0m 9.35m 25.5ノット 15,000馬力






一悶着ありましたが、【梨】は1956年5月31日、修理改装を経てついに復活の時を迎えます。
名は【警備艦 わかば】とされ、最初は主に練習艦運用を求められます。
【わかば】とされた理由は、まず海上自衛隊は艦名をひらがなにすることになっていますが、「なし」では「無し」と思われてしまいます。
そのため、かつて「松型・橘型」での命名の慣例とされた草木に関する言葉から、未来を担うというポジティブな意味も込めて【わかば】という名が採用されました。
また、【梨】時代の兵装は全て撤去され、無武装の状態でした。

しかし【わかば】は復活当初から悩みの種がつきまとっていました。
何しろ10年も海水に浸かっていたわけですから、いくら修理をしたとしてもなかなか快調に機関は動いてくれません。
けたたましい異音が【わかば】から発せられ、ろくに会話もできないほどだったそうです。
また、当時は終戦から10年が経過しており、旧式構造の【わかば】に類する艦艇は他には存在しませんでした。
運用でも修理でも参考にできる船がないため、管理には大変苦労したようです。

そしてさらに月日は流れて、【わかば】は第二次改装を受けることになりました。
この時にはAN/SPS-12対空レーダー50口径3インチ連装砲をはじめとした、アメリカ式の武装がしっかりと施されています。
そして1958年3月26日、今度は【乙型警備艦 わかば】として再就役します。

しかし警備艦とは言うものの、【わかば】はもっぱら兵装実験艦としての任務を行うことになります。
「乙型」として再就役した時には主砲やレーダー、対潜ソナー等の標準的な装備を揃えていましたが、1968年からは実用実験隊に編入され、ますますその毛色が色濃くなりました。
ソナーは次々と入れ替わり、レーダーはAN/SPS-8B高角測定レーダーを後に採用。
特にこの高角測定レーダーは、海上自衛隊で唯一装備した艦となっています。
その他にも1、2年おきに武装・機器類の変更が行われ、【わかば】の装備はなかなか一定しませんでした。

【わかば】には旧【梨】の乗員が優先的にあてがわれました。
上記のように同型艦がいないため、運用のためにもかつての乗員というのはとても貴重な存在でした。
しかし一方で幽霊騒ぎが後を絶たなかったという話もあります。
同艦でも死人が当然出ていて、船は一度海没、そしてその時の乗員が10年以上ぶりに船に乗っているわけですから、幽霊が出そうな条件は確かに整っているように思います。

あまり実践としての活動をしなかった【わかば】ですが、1962年には東京からほど近い三宅島の噴火がありました。
その際【わかば】は住民の避難のために三宅島へ向かい、無事に住民を東京まで送り届けています。
しかし退役1年前の1970年には訓練中に小型タンカーと衝突するという事故も起こってしまいました。

そして1971年、数々の実験を行ってきた【わかば】にもついに最後の時がやってきます。
1971年3月31日、復活してから約15年、【梨】として竣工してから約26年目。
【わかば】はこの日を持って除籍され、波乱の艦生を閉じました。
しばらくは保管されていましたが、1975年に古沢鋼材へ売却され、そこで丁寧に解体されました。


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