旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


駆逐艦 長波

駆逐艦 長波【夕雲型駆逐艦 四番艦】
Destroyer  NAGANAMI 【YUGUMO-class Destroyer 4th】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
第三次多号作戦
建 造
1941年4月5日 1942年3月5日 1942年6月30日 1944年11月11日 藤永田造船所
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
2,077t 119.0m 10.8m 35.5ノット 52,000馬力







夕雲型一の戦の語り部 最も長く戦い続けた長波


「夕雲型」四番艦の【長波】は「ミッドウェー海戦」後に竣工。
以降全ての「夕雲型」はかつて無類の強さを誇った一航戦、二航戦の存在を見たことはありません。
【長波】【巻波・高波】とともに第三十一駆逐隊を編成しました。

初陣は遅く、10月13日のヘンダーソン飛行場艦砲射撃の護衛に就いたのが初。
自身も艦砲射撃に加わった一方で、この砲撃を阻止しにきた魚雷艇を追い払ってもいます。
その後26日にも「南太平洋海戦」に参加し、ここから徐々に【長波】の出番が増えていきます。

11月からは輸送任務を担い、空襲の合間を縫って出撃していましたが、その空襲が生半可なものではなかったために多くの輸送船が任務を果たせずに撤退、もしくは沈没。
12日は8回もの反復空襲によって、11隻いた輸送船がガダルカナル島に到着した時には4隻にまで減っていました。
さらに「第三次ソロモン海戦」での雌雄も決したため、日本が敗北を認める日も遠くありませんでした。

しかし戦いを止めるわけにはいきません。
輸送船が少なくなってきた日本は、それを補い、尚且つ迅速に物資を送り届ける手段を編み出さなければなりませんでした。
そこで考案されたのが、ドラム缶輸送です。
ドラム缶にある程度食料などの物資を詰め込み、大量に用意したドラム缶を全てロープで繋ぎます。
それを積んで駆逐艦による鼠輸送を実施、沿岸が近づくとドラム缶を海に投げ出し、現地にある大発動艇などがそのロープを回収し、陸まで物資を引き上げるという方法でした。
物資の揚陸中は無防備になり、さらに駆逐艦は停泊しているため襲われるといい的になってしまいます。
この方法だとたとえ停泊していても海上で、さらに航行しながらも物資を投下できるため襲撃の回避行動が取りやすくなります。
また陸でも身を隠しながら物資を引き上げることも可能であるため、これまでよりも安全性を高めることができました。

しかし、この方法はあまりいい結果を生み出しません。
予備魚雷を下ろしてまで積まれたドラム缶の数は駆逐艦1隻につき240個ほどと言われ、その重さは数十トンに達します。
現地にいる陸軍兵士たちは飢えに苦しんでおり、物資の有無が今日の生死を占うほどの状態でした。
このように体力が激減している兵士たちにとって、数珠つなぎとなったドラム缶を引っ張り上げることは至難の業でした。
さらにその作業を米軍が黙って見逃すわけもなく、その貴重な物資は次々と海中に沈んでいきました。
4回中2回の揚陸に成功したこの作戦ですが、揚陸に成功した=物資が無事行き渡ったとはならなかったのです。

さて、そのドラム缶輸送を任された第二水雷戦隊の中で、【長波】は旗艦を務めます。
そのため指揮能力を優先されドラム缶は積みこんでいませんでした。
そんな中、11月30日に米軍の偵察機に鼠輸送を行う駆逐艦隊を発見され、その夜に生起したのが「ルンガ沖夜戦」です。
【高波】の発見の報に最初は接触を避け、輸送を優先するつもりでしたが、アメリカの重巡部隊はは明らかにニ水戦の行く手を阻みにきていました。
やむを得ず【長波】は揚陸を断念、輸送物資を投棄し、戦闘態勢に入りました。

しかしその戦闘態勢に入るのが一歩遅く、米艦隊からの先制攻撃を受けてしまいます。
先頭にいた【高波】が砲撃の的になり、集中砲火を浴びる中、他の駆逐艦は体制を整えて反撃を開始。
また【高波】も負けじと魚雷を発射し、奇襲を仕掛けて一挙壊滅を狙った米軍に強烈なしっぺ返しを食らわせます。
夜戦で米軍が日本より優れていたのはレーダーなどによる戦闘開始までの準備段階で、いざ戦闘となるとまだ日本に一日の長がありました。
さらに隠蔽性の高い酸素魚雷が米艦隊を襲い、敵側から次々と炎が上がりました。

終わってみれば、攻撃が集中した【高波】こそ沈没するものの、【米重巡 ノーザンプトン】撃沈、【米重巡 ミネアポリス、ニューオーリンズ、ペンサコラ】を大破させる大逆転勝利。
6隻の駆逐艦が5隻の重巡に勝利をおさめるという、まさに日本が夢見た水雷戦隊の姿でした。

しかし、忘れてはならないことがあります。
それは、この作戦が輸送任務であり、決して敵艦隊を撃滅させることが目的ではなかったことです。
ドラム缶を投棄していますから、輸送任務は完全に失敗です。
また、戦闘の経過についても追求されました。
【長波】【高波】が被害を受けた直後に反撃を命令し、艦隊は砲撃を開始しています。
同時に魚雷を発射していますが、その命令後、【長波】は後方に退避し、戦闘の行く末をただ見守っていただけでした。
さらに魚雷を全弾撃ち尽くした駆逐艦を【高波】の救助にあたらせる、そしてそもそも二水戦司令官の田中頼三少将がドラム缶輸送に否定的だったこともあり、彼はこの海戦後に左遷されてしまいます。

しかし田中少将の行動は特に勝手でも臆病なものではなく、旗艦は指揮を行う存在であるため、自身が積極的に艦隊を引き連れることはあまりありませんでした。
この追求には最後に述べた、ドラム缶輸送に反抗的な態度であったことが原因ではないかと思われます。

一方で、米軍の【長波】の活躍は大絶賛そのものです。
この海戦は米艦隊の奇襲であり、反撃の余地なく蹴散らしたあとに退避する予定でした。
ところが【長波】はすぐさま米軍に攻撃を開始し、逃げを許さずに戦場に引きずり込み、さらに適切な指示で魚雷を打ち込んでいます。
そしてそれに応えた二水戦も合わせて大きく褒め称えています。

さて、その後も【長波】は輸送・護衛任務に就き続け、5月からは修理を経てから北方海域へ進出します。
そして7月には「キスカ島撤退作戦」に参加。
第一水雷戦隊に所属し、【長波】は濃い霧の中海上を進みます。
ところが求め続けた濃霧はあまりも濃すぎたため、距離感を誤った【阿武隈】【海防艦 国後】と衝突、さらに【初霜】が前をゆく【若葉】に衝突し、減速した【初霜】の後方にいた【長波】がその艦尾に接触。
五重衝突事故が発生し、作戦の実行に暗雲が立ち込めます。
幸い、【若葉】1隻の離脱だけで事なきを得、作戦は失敗ギリギリのタイミングで実行され、そして見事成功しています。
【長波】の損傷もごく軽微で、作戦終了後に舞鶴で1ヶ月に満たない修理を行っています。

11月、「ブーゲンビル島沖海戦」に参加後、11日に「第二次ラバウル空襲」が行われます。
これに巻き込まれた【長波】は後部に直撃弾を受け、爆発の衝撃でスクリューが吹っ飛び航行不能となってしまいました。
なんとか次なる被害を受けずに難を逃れた【長波】でしたが、ラバウルで応急処置を行ったあと、【水無月】に曳航されてトラックへ、さらに【長良】に曳航されて呉まで向かいます。
そして半年ほどの長い休息をとることになりました。

6月に「マリアナ沖海戦」、10月に「レイテ沖海戦」と立て続けに苦難の海戦に参加した【長波】は、その「レイテ沖海戦」で大破した【高雄】の護衛を【朝霜】とともに担います。
【高雄】が必死に修理を行っている間、【長波・朝霜】は再三に渡って止めを刺しにきた潜水艦に向けて爆雷でこれを迎撃しています。

夜になってようやく自力航行が可能になった【高雄】を護衛して、【長波】はブルネイへと向かいます。
その途中で、【愛宕】を沈め、【高雄】をこのような姿にした【米潜水艦 ダーター】が座礁しているのを発見し、できる限りのものを艦内から回収し、さらに13mm機銃も押収しています。
押収した13mm機銃は後に【長波】に増設されています。

しかしその翌月の11月10日、「多号作戦」に参加することになった【長波】は、第四次輸送部隊を護衛中に空襲にあって【陸軍特殊船 高津丸】【輸送船 香椎丸】を失ってしまいます。
【霞・朝霜】とともに乗員を救助した後、【長波】は第四次輸送部隊から離脱して第三次輸送部隊への元へ向かうよう命令されます。
同じく命を受けた【若月・朝霜】とともに出発した【長波】は、同日夜には第三次輸送部隊と合流することができました。

ところが第三次輸送部隊もまた、米軍の標的となります。
数にして350機に迫る航空機が第三次輸送部隊に襲いかかり、5隻の駆逐艦が迫り来る恐怖に挑みます。
しかし早々に【浜波】が被弾して艦首が半分ちぎれてしまいます。
さらに【若月】も魚雷を2発受けて轟沈。
【島風】は被弾こそなかったものの、負荷がかかりすぎた機関がオーバーヒートしてしまい、やがて爆沈。
輸送船も全滅する中、【長波】【朝霜】は懸命に戦い続けました。

やがて、【長波】から弾薬がなくなってしまいます。
両者一歩も引かない激しい対空戦の末、全弾を撃ち尽くしてしまったのです。
その後、艦橋付近に被弾、右舷に至近弾を受けた【長波】は右に傾きながら沈んでいきました。
唯一【朝霜】だけがこの空襲を生き延び、そして彼女が「夕雲型」最後の1隻として「天一号作戦」の一員として名を刻むことになります。

ちなみに【長波】「夕雲型」で最も長寿で、また一番艦【夕雲】から十九番艦【清霜】まで、すべての姉妹艦と戦うことができた唯一の「夕雲型」でもありました。
また、戦時中の第二水雷戦隊所属日数が804日と、2位の【陽炎・黒潮】の517日を大きく引き離しての最長記録保持者でもあります。


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