旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します




駆逐艦 松【松型駆逐艦 一番艦】
Destroyer  MATSU 【MATSU-class Destroyer 1st】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
聟島(むこじま)南西
建 造
1943年8月8日 1944年2月3日 1944年4月28日 1944年8月4日 舞鶴海軍工廠
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
1,262t 100.0m 9.35m 27.8ノット 19,000馬力







久々の量産型駆逐艦 戦闘は考慮されなかった松型


1941年12月、太平洋戦争が勃発し、当初は破竹の勢いで連合軍を蹴散らしていましたが、「ミッドウェー海戦」を境に帝国海軍はその勢いを失い、各艦種での喪失が徐々に増えていくようになりました。
特に「ガダルカナル島の戦い」では輸送任務にまで駆りだされた駆逐艦の喪失が顕著で、第四水雷戦隊が解散するほどの被害が発生していました。
アメリカは古くなった駆逐艦を輸送用に改造して流用していましたが、日本にはそのような艦はほとんどいませんでした。
使える駆逐艦はすべてつぎ込まれていたからです。

水雷戦の要として建造された「甲型駆逐艦 陽炎型・夕雲型」、防空駆逐艦として護衛を主任務とした「乙型駆逐艦 秋月型」、帝国海軍の技術の粋を結集して生み出された「丙型駆逐艦 島風型」
そのどれもが個々の能力は優秀だったものの、その代償として量産には全く向いていませんでした。
しかもこの駆逐艦は常に最前線で死線ギリギリの戦いをすることになります。
どうしても被害は積み重なり、駆逐艦不足は避けられないのが実情でした。

日本は「ミッドウェー海戦」後、改訂第五次軍備補充計画(改マル5計画)を立案し、甲・乙型駆逐艦の増備を進めようとします。
しかし、これらを竣工させるには1年以上の歳月がかかってしまいます。
【花月】が10ヶ月半で竣工するなど例外はありますが、あくまで例外、損傷艦が逐次発生する戦時中に、常にそのような短工期での建造ができるわけがありません。
さらに「ガダルカナル島の戦い」による大損耗、駆逐艦不足は攻撃から輸送に及ぶ全ての曲面で深刻な問題を起こしていました。

そこで計画、建造されることになったのが、「丁型駆逐艦 松型」です。
「松型駆逐艦」はこれまでの艦隊型駆逐艦とは全く違うコンセプトで、鼠輸送、ドラム缶輸送、揚陸作戦など、艦隊型駆逐艦がやるべきではない任務を担当できるような役割を持つようになります。
そして数を埋めなければならないため、とにかく工期短縮のために構造を単純化、兵装も砲よりも機銃・対潜装備を重視し、護衛・輸送が主任務となるような設計となりました。
ですが、アメリカで450隻以上も建造されたいわゆる「護衛駆逐艦」という枠組みではなく、あくまで帝国海軍内では「駆逐艦」として扱われました。

日本には当時、1920年代に量産された「若竹型駆逐艦」という「二等駆逐艦」(排水量1000t以下の駆逐艦)がまだ駆逐艦籍に残っており、「若竹型」も太平洋戦争では活躍をしています(「樅型駆逐艦」はほとんどが哨戒艇などの艦種変更が行われています)。
「松型」も同じく量産型ですが、こちらは排水量が約1,260tで「一等駆逐艦」であるため、「樅型・若竹型」とは別の扱いになります。
しかし命名は「二等駆逐艦」に充てられる「植物」の名前となっており、一等・二等の違いよりも役割・量産であることから採用されたのかもしれません。

予算や保有できる数の関係上、これまでは1隻の質をあげることを重視して高性能駆逐艦を建造してきましたが、上記のように数不足という現実を突きつけられ、1942年8月から「松型」の建造が始まります。
構造は流麗さが自慢の艦隊型駆逐艦とは全く異なり、できるだけ曲面を排除した平面型のカクカクしたものとなり、鋼材もより調達しやすい高張力鋼板をメインに採用、かつて試行錯誤していた溶接技術も積極的に採用しされています。
高張力鋼板は重量があるため、これまでは嫌われていましたが、「松型」の場合は特に文句を言われることもなくすんなり採用されました(これまで使用されていた特殊鋼は、甲板部のみで使用されています)。
機関は量産に向いている「鴻型水雷艇」のものを2基2軸採用し、速度は27.8ノット。
何度も口うるさく改善を要求された航続距離も、18ノットで3,500海里ほどと、「陽炎型」に比べて1,500海里も減っています。

「松型」の構造として、量産に向くように設計された点以外にも着目すべきところがあります。
それは機械室のシフト配置式です。
「秋月型・島風」で採用された機械室の分離は、機械室を前後に分け、片軸の機械ごと一室を充てるという方式をとっていましたが、シフト配置式ではそれをさらに突き詰めます。
ボイラーと機関が同室だったものをさらに分割し、艦首側から 

左舷用ボイラー ⇒ 左舷用機関 ⇒ 右舷用〃 ⇒ 右舷用〃 

という並びを採用したのです。
これはスクリュー軸の取付角度が左右で異なってしまうため、工期優先の「松型」のコンセプトに反するという点から反対もあったのですが、何よりも船が生き残ることが第一です、工期よりも生存率を上げることが重要視されました。

装備品でも、「松型」ならではの特徴が各所に出ています。
兵装は12.7cm高角砲(連装)を採用しますが、それは艦尾甲板に1基2門搭載。
そして艦首には「松型」専用の防盾付き単装砲架を新造し、こちらも1基1門搭載しています。
機銃は【松】建造時は25mm機銃8基、三連装機銃3基を用意し、魚雷は申し訳程度に61cm四連装魚雷発射管を1基搭載しています。
魚雷に関しては次発装填装置・予備魚雷共になく、攻撃用ではなく排除・自衛用としての搭載かと思われます。

さらに艦隊型駆逐艦にはないものとして、「小発動艇」の存在があります。
輸送任務の記述の中で時折登場している「大発動艇」の小型版で、輸送任務に使うことを見越して「小発動挺」を2隻載せています。
最後に対潜装備ですが、こちらは他の駆逐艦同様、九三式聴音機九三式探信儀を採用しています。

以上の内容で、「松型」の建造ははじまりました。
工期の目標は6ヶ月。
艦隊型駆逐艦に比べると明らかに性能が劣りますが、逆に言えば、艦隊型駆逐艦を目指さなければ十分な性能を持っていました。
【松】
の竣工は1944年4月ではありますが、終戦までの1年4ヶ月の間、「松型」と後期型の「橘型(改丁型)」は量産され、そして次々と投入されていきました。

駆逐艦としての最期 圧倒的不利な戦況に挑んだ松


(長文でもいい、もっと詳しく、という方はこちらをご覧ください)

戦時量産型駆逐艦である「丁型駆逐艦」のネームシップとなる【松】は、そもそもその建造が遅かったために登場したのは1944年4月と、太平洋戦争ではかなり劣勢となっていた時期でした。
【松】は他の駆逐艦同様、竣工後は第十一水雷戦隊で訓練を積むことになります。

5月1日から1ヶ月半ほど、呉で訓練を行っていた【松】ですが、米軍がサイパン島へ上陸し始めた6月中旬になると、これを撃退するために陸海軍がサイパン島へと派遣されることになります。
【松】もその中の一員となり、小笠原諸島や硫黄島へ向けての輸送任務を任されました。

【松】が輸送を行った硫黄島は、戦略的な面からいずれ死闘の場になる可能性が非常に高く、日本はサイパン上陸部隊として編成していた陸軍や物資の一部を小笠原諸島・硫黄島の増強に充てます。
この輸送を担った部隊を「伊号輸送部隊」と呼び、主に第十一水雷戦隊に所属している艦で編成されました。
伊号輸送部隊は3部隊で編成され、【松】【長良・冬月】と3隻で行動を共にします。

その硫黄島からは「マリアナ沖海戦」に向けて航空機が飛び立つ予定でしたが、悪天候に阻まれて出撃は遅れてしまいます。
「マリアナ沖海戦」も圧倒的な数の航空機に行く手を阻まれ、日本は被害をただ重ねていくだけの大敗北に終わりました。
【松】の初任務は、海戦の敗北とサイパン島陥落という最悪の形で幕を下ろし、日本はいよいよ本土空襲や日本近海への米軍進出の危機にさらされます。

7月3日に伊号輸送部隊が解散となりますが、【松】は引き続き小笠原諸島への輸送任務を継続。
15日には【梅・竹・桃】らで第四十三駆逐隊を編成することになります。
「松型」の駆逐隊は4隻編成ではありませんでした。)
しかし実際には上記4隻で行動をした記録はなく、【松】はそのまま輸送任務にあたる他の艦との連携が続きました。

7月16日、「三七一八船団」が編成され、7隻の輸送艦・商船を【松】【旗風】などが護衛することになります。
硫黄島行きを甲分団、父島行きを乙分団とし、【松】は甲分団所属となります。
率いるのは高速性のある輸送艦3隻で、【旗風】とともに【松】は無事硫黄島へ、一方乙分団を率いた【水雷艇 千鳥】も無事父島への輸送を果たしました。

続いて「三七二九船団」を同じく硫黄島・父島へ輸送することになり、今度は対潜哨戒として【瑞鳳】も同行。
第二護衛船団司令部の旗艦となった【松】は、船団を率いて輸送・護衛用として誕生したにふさわしい役割を担いました。
【松】らは輸送船6隻を護衛し、潜水艦の電波を探知しながらも、無傷で父島への輸送を成功させています。
しかし硫黄島への危機は目前に迫っており、硫黄島への米軍接近の警報が発令されました。
父島から硫黄島へ向かうところだった【松】達は、今度は「四八○四船団」を編成し、急ぎ父島へ、さらには本土へ戻ることになります。

しかし「四八○四船団」が父島を離れたからおよそ1時間後、懸念していた米軍がついに父島へ到達(「スカベンジャー作戦」)。
幸いなのか、この航空部隊は父島空襲が目的ではなかったようで(【瑞鳳】を狙ったという説があります)、父島への被害はありませんでした。
ところが何も土産がないのに米軍も帰るわけにはいきません。
上空旋回中に、10隻ほどの船団の存在を確認すると、攻撃の目標はその船団となりました。

その船団こそ「四八○四船団」。
輸送船を囲う形で進んでいた「四八○四船団」ですが、護衛艦は【松】以外は【旗風】と海防艦・駆潜艇で、個々はともかく船団としての対空装備が充実しているとは言えありません。
1隻、また1隻と輸送船は力尽きていき、ついに輸送船は【利根川丸】を除き全滅。
その【利根川丸】も満身創痍で、【松】らも傷だらけになりながら辛くもこの空襲から逃れました。
船団はバラバラになり、ともに航行できていたのは【松】【利根川丸】【第四号海防艦】の3隻でした。
ひとまず本土を目指し、3隻は疲労をおして航行を続けます。

しかし18時頃、航空部隊とは別働隊として動いていたデュ・ポース率いる米軍艦隊に補足されてしまいます。
計11隻の軽巡・駆逐艦で編成された艦隊は、ボロボロになっている【松】ら3隻に容赦なく砲撃を開始しました。
当然【松】は逃げ切ってしまいたいのですが、まず【松】の最高速度は28ノット足らず、海防艦も遅いですが、【利根川丸】に至っては最大11ノットととても鈍足です。
逃げきれるわけがなく、どんどん敵艦隊が近づいてきます。

量産型で、戦闘向けに造られていない【松】ですが、ここで駆逐艦としての覚悟を決めます。
第二護衛船団司令部の高橋少将は、【第四号海防艦】へ向けて、「四号海防艦は利根川丸を護衛し戦場を離脱せよ 」と命令し、【松】は反転します。
主砲も魚雷も見劣りし、速度は遅く、そしてすでに疲労困憊。
それでも、【松】は11隻の艦隊へ向かって突進していきました。

19時40分頃、「われ、敵巡洋艦と交戦中。これより反転、突撃す」という電文が【第四号海防艦】に届きます。
そして、それが【松】の最期の声となりました。
たった4人の生存者の証言によると、【松】は反転したものの未だに敵艦影は見えず、襲いかかる砲弾が発射された際に砲身で発生する光を目標に砲撃をしたとのことでした。
残念ながら【松】が身を挺して逃がそうとした【利根川丸】も21時頃に砲撃と空襲によって沈没。
これにより、「四八○四船団」の輸送船は全滅してしまいました。

【松】は短期間ではございますが輸送・護衛任務を確実にこなし、そして最後まで駆逐艦の矜持を忘れなかった、立派な駆逐艦でした。

(以前、「生存者はゼロ」と表記しておりましたが、4名の生存を記す資料がありました。申し訳ございません。)

2016年12月17日 改訂


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