旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


駆逐艦 清霜

駆逐艦 清霜【夕雲型駆逐艦 十九番艦】
Destroyer  KIYOSHIMO 【YUGUMO-class Destroyer 19th】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
礼号作戦
建 造
1943年3月16日 1944年2月29日 1944年5月15日 1944年12月26日 浦 賀 船 渠
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
2,077t 119.0m 10.8m 35.5ノット 52,000馬力







艦隊型駆逐艦の最終艦 半年の奮闘


【清霜】「夕雲型」の最終艦のみならず、甲型駆逐艦、そして戦闘能力を有する艦隊型駆逐艦としても最後の駆逐艦になります。
「秋月型駆逐艦」は乙型駆逐艦、「松型・橘型駆逐艦」は丁型駆逐艦に分類されます。
ちなみに【島風】は最強の駆逐艦を目して建造されましたが、分類は丙型駆逐艦です。

【清霜】は第十一水雷戦隊での訓練期間すらたった1ヶ月と非常に短く、6月に早速【多摩・木曾・皐月】とともに「伊号作戦」に参加。
小笠原諸島までの輸送任務を行い、実践訓練の様相を呈していました。
小笠原到着後も様々な輸送任務に招集され、あちこちを行ったり来たりと、戦闘参加はないものの出ずっぱりの日々でした。

8月15日、終戦のちょうど1年前、【清霜】【早霜・秋霜】とともに第二駆逐隊を編成。
そして10月の「レイテ沖海戦」には第二艦隊に所属してリンガ泊地を出発しました。
【清霜】は当初【金剛・榛名】ら第三戦隊を護衛していましたが、24日の「シブヤン海海戦」でひときわ目立つ【武蔵】が集中砲火を浴びてしまいます。

そこで【清霜・利根】が護衛に回るのですが、爆弾の嵐の最中に突っ込む【清霜】も無事では済みません。
あまりの対空砲火に接近ができなかった艦載機の一部が【清霜】にも攻撃を行い、【清霜】は一番魚雷発射管に直撃弾を受けます。
魚雷発射管に直撃弾など、轟沈の未来を想像することは当然で、現場もその光景に死を覚悟したそうです。
ところがあまりの衝撃に、魚雷が爆発する前に炸薬の詰まった魚雷頭部が魚雷から剥ぎ取れ、誘爆に至らなかったのです。
九死に一生を得た【清霜】ではありましたが、しかし被害は甚大で、電探探照灯破損、二番魚雷発射管も2発しか打てず、速度も24ノットにまで低下してしまいました。

【武蔵】への攻撃は止む気配がありません。
頑丈故にどんどん被害が蓄積していく【武蔵】はついにその歩みを止め、沈没の憂き目を見ることになります。
【利根】は艦隊に合流しましたが、その代わりに【浜風】が合流、【清霜】とともに【武蔵】の乗員の救助を行っています。
本当は横付けしたかったのですが、その巨体が起こす渦が接近を許しませんでした。

「レイテ沖海戦」後、【清霜】はコレヒドール島へ【武蔵】の乗員を揚陸すると、再び船団護衛に就きます。
また11月8日には「レイテ沖海戦」で大破した【高雄】をブルネイからシンガポールまで護衛。
【高雄】は終戦までこの地を発つことはありませんでした。

一方、10月29日には【早霜】が「レイテ沖海戦」の空襲の被害を耐え切れず擱座、のち沈没、【秋霜】は11月13日にマニラ大空襲に巻き込まれて沈没、これにより、第二駆逐隊は【清霜】だけとなっていました。
そのため、第二駆逐隊には新たに【朝霜】が編入されます。

その【朝霜】とともに、【清霜】は帝国海軍最後の勝利をつかむことになる「礼号作戦」に参加。
ミンドロ島への艦砲射撃に向けてカムラン湾を出発しました。
しかし道中は決して穏やかではありません。
ミンドロ島が近づくに連れて攻撃も盛んになり、そして空襲によってついに【清霜】が被弾します。
重油タンクが破壊されて左舷機関が停止、さらに右舷の機関も止まってしまった【清霜】は航行不能に陥ってしまいました。

深夜23時、闇夜に大きな火柱を立てて【清霜】は爆沈。
爆弾が原因にしてはあまりにも大きな爆発だったため、最終的な原因は周囲にいた魚雷艇の魚雷ではないかという推測もあります。

ミンドロ島はすぐそこであったため、【清霜】はすぐには救助されずに作戦実行が優先され、「礼号作戦」は見事成功。
帰り道に【霞・朝霜】【清霜】を救助、そして【足柄・大淀】が近寄ってくる魚雷艇を追っ払い、258名が救助されました。
たった半年の間でしたが、【清霜】は帝国海軍の最後の勝利のために奮闘しました。


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