旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


駆逐艦 榧

駆逐艦 榧【松型駆逐艦 十一番艦】
Destroyer  KAYA【MATSU-class Destroyer 11th】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日 建 造
1944年4月10日 1944年7月30日 1944年9月30日 1959年8月1日 舞鶴海軍工廠
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
1,262t 100.0m 9.35m 27.8ノット 19,000馬力






大和の出撃を見送った榧 ソ連でも駆逐艦として所属


【榧】は竣工後の第十一水雷戦隊での訓練を1ヶ月足らずしか行っておらず、10月25日は早くも初任務となりました。
【梅・桃・樅】とともに、台湾への輸送を行う【龍鳳・海鷹】の護衛を任されます。
27日には台湾・基隆へ無事到着し、【榧】は11月2日に呉へと戻りました。

11月25日付で【榧】は第三十一戦隊に所属することになり、また駆逐隊も第四十三駆逐隊に編入となりました。
第四十三駆逐隊は【松・竹・梅・桃・槇】が所属していましたが、このうち【松】はすでに戦没していました。

同日、【榧】は次なる任務、「ヒ83船団」の護衛として門司を出発、一路シンガポールを目指します。
船団にはともに台湾へと向かった【海鷹】【樅】もいました。
到着後、【榧】はそのままマニラまで移動したのですが、到着したのもつかの間、12月14日にはアメリカの大空襲がマニラを火の海へと変貌させました。
【榧】はなんとか逃げおおせますが、マニラ大空襲では数多くの軍艦や輸送船が沈没・破壊され、【榧】【樫】とともに南沙消灯へと避難しました。

翌15日、アメリカは続いてミンドロ島へ上陸。
「ミンドロ島の戦い」が始まり、また日本の拠点が一つ失われつつありました。
日本は急ぎこの状況を打破すべく、南沙諸島にいる艦艇を中心にミンドロ島サンホセへの艦砲射撃作戦を実行に移します。
ところがこの作戦を指揮するはずだった司令が肺結核を患って入院することになり、作戦は延期。
具体的な日程は不明のまま、【榧】はひとまず南沙諸島からサンジャックへと移動し、そこで他の戦力となる第二遊撃部隊と合流することになりました。

アメリカのミンドロ島上陸から5日後の20日、作戦は木村昌福少将が指揮を執ることで決定。
また参加艦艇も第二遊撃部隊が加わり、ここに第二水雷戦隊を中心とした「礼号作戦」が実施されることになりました。
【榧】は射撃装置の不調、一部浸水箇所ありと万全の状態ではありませんでしたが、【樫】とともに【タンカー 日栄丸】を護衛しながらサンホセを目指しました。
道中は決して穏やかではなく、数度の空襲と魚雷艇の攻撃を掻い潜りながらの進軍。
最後の空襲では【清霜】が撃沈されるなど被害もありながら、なんとか艦隊は26日夜にサンホセへ到着しました。

アメリカの応戦準備が整っていないこともあり、到着後はほぼ一方的な攻撃を繰り出すことに成功します。
【榧】【霞・樫】とともに貨物船へ向けて魚雷を発射しており、いずれかの魚雷が貨物船を大破に追い込みました。
しかし【榧】は機銃射撃がマストにあたって折れてしまっています。
約20分という短い戦い、結果的には戦況への影響もない戦闘でしたが、この作戦は日本海軍の最後の組織的戦いでの勝利となりました。

帰路では道中で力尽きてしまった【清霜】の乗員の救助を行い、またさらに進むと今度は【給料艦 野埼】【米潜水艦 デイス】の雷撃によって沈没していたため、その乗員の救助にもあたっています。

1945年1月1日、【榧】はサンジャックを出港して台湾の高雄へと向かいます。
7日に到着し、高雄では不要な弾薬を降ろし、応急処置を受けています。
2日後の9日に高雄を出港し、13日には舞鶴へ帰投しました。
その後第四十三駆逐隊の司令駆逐艦に任命されますが、【榧】の居場所は駆逐隊や海ではなくドック、1ヶ月半ほどは修理が行われることになりました。
3月には呉へと移動しますが、呉でも少しだけ修理を受けています。

修理が終わると、【榧】【槇】とともに【大和】の隣で最後の出撃を待ち続けました。
そして4月6日、【大和】と第二水雷戦隊は命を賭した戦いへと出発します。
「天一号作戦」の発令です。
【榧】【花月・槇】とともに艦隊を護衛、米潜水艦の巣窟となっている豊後水道を警戒しながら進みます。
無事豊後水道を通り抜けると、戦力にはならないこの3隻は艦隊から離脱、もう見ることのない、あまりにも大きな日本の戦艦を見送りました。

その後、燃料不足のために【榧】は山口県の屋代島で停泊し、そのまま日本の降伏まで活動することはありませんでした。
終戦後は復員船として約8ヶ月従事し、最後は賠償艦としてソ連へと引き渡されました。
ソ連では名を『ヴォレヴォーイ』と改め、艦隊水雷艇(駆逐艦)として引き続き前線に出ることになります。
1949年2月14日にその任は解かれて予備役に、さらに6月には除籍されて標的艦となります。
標的艦となった『ヴォレヴォーイ』『TsL-23』に改称、およそ10年間、ソ連海軍のサポート役を担いました。

1958年6月10日、『TsL-23』『暖房船 OT-61』へと変更されますが、翌年の8月1日付で退役。
日本よりも遥かに長く生活したソ連の海で解体されました。


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