旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


駆逐艦 朝潮

駆逐艦 朝潮【朝潮型駆逐艦 一番艦】
Destroyer  ASASHIO 【ASASHIO-class Destroyer 1st】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
ビスマルク海海戦
建 造
1935年9月7日 1936年12月16日 1937年8月31日 1943年3月3日 佐世保海軍工廠
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
2,000t 118.0m 10.39m 34.85ノット 50,000馬力







かつての栄光を再び 特型復活を願って建造された朝潮


「特型駆逐艦」の建造から10年が経とうとしていた1935年、日本は駆逐艦で大きな試練を抱えていました。
「ロンドン海軍軍縮条約」によって駆逐艦排水量が1,500t以下に抑えられ、その条約に基づいて建造された「初春型」は改造に次ぐ改造を施すほどの大失敗、続く「白露型」「初春型」の教訓を活かして建造されたものの、「『特型駆逐艦』に準ずる能力をもつ中型駆逐艦」という目標には至っていませんでした。
特に「特型駆逐艦」で大きな成果となった外洋航行能力を最大限活かすための航続距離の延長が達せられなかったことに不満が集中し、結局1,500t以下ではどうしようもうないことを認めざるを得ませんでした。
「初春型・白露型」はともに秘密裏に1,500tをオーバーして建造されていましたが、それでも計画段階では1,500t以下として進められていました。
しかしこの突きつけられた問題を解決するためには、この枠を超えること以外に方法がなかったのです。

1934年、世界は「第二次ロンドン海軍軍縮会議」を開催し、「ロンドン海軍軍縮条約」の継承を希求します。
しかし日本はもともと米英との比率の開きに不満を持っており、当時から軍事力の平等化を訴えていました。
もちろん米英としては、日本の躍進を抑えるための会議と言ってもいい本会議でそれを認めるわけがありません。
そこで日本はこの「第二次ロンドン海軍軍縮会議」において「軍備比平等」を引き続き唱えるだけでなく、「戦艦・空母の全廃を視野に入れる」という、海軍兵力の大削減も提唱しました。
到底この主張は受け入れられるわけがなく、日本はこれをもって「ワシントン海軍軍縮条約」からの脱退を通告、同時に「第二次ロンドン海軍軍縮会議」からも脱会し、日本は久しぶりに束縛されない環境を取り戻します。
1936年から無制限条約時代に突入し、日本はそれを見越して動き始めました。

さて、駆逐艦にとって暗い闇の時代に光が差し込み、日本は改めて強力な大型駆逐艦の建造に踏み切ります。
その第一号が、「朝潮型駆逐艦」です。
「朝潮型」「特型」時代に求められた能力に、それ以後に得た新しい技術を採用する形で計画されます。
魚雷は四連装×2基で1門減ってしまいますが、これには「特型」にはなかった次発装填装置が採用されていますので、海軍からの注文はありませんでした。
主砲は5門から6門へと増加、かつて「初春型」で採用されたような背負式という無茶な方法は取らず、元通り前部2門、後部4門の配置となっています。
そしてもちろん、船体強度と復原力にも配慮された造りとなり、艦橋は【海風】から採用された小型艦橋を継承し、喫水を深くとることで非常に安定性が増しています。

「朝潮型」で大きな変化となったのは主に2つ。
まず1つは高温高圧缶の採用です。
従来の艦本式缶に比べて燃費がさらに10%向上したこの新型缶は、航続距離向上には欠かせないものとなりました。
しかし公試ではかなりの改善が見られたものの(要求の18ノット:5,000海里をクリア)、カタログスペック上ではまだまだ要求に答えれる数字ではなかったため(18ノット:4,000海里)、「朝潮型」は次代の「陽炎型」にこの能力向上を託します。

もう1つは、これも燃費・航続距離向上につながるものですが、艦内電力を交流化します。
これは至上命題である「軽量化」に直結するもので、電力設備数に大きく影響しました。
艦内は設備能力の改善にともなって消費電力も増加していました。
となると、その電気の力となる電圧もより高圧化するほうことが求められます。
(ややこしいですが、電流とは「電気の量」で、電圧とは「電気の力」、そして電力はこの2つが掛け合わさって算出されます。大きなエネルギーを生み出す際は、1の力をもった10人よりも、10の力をもった1人のほうが爆発力があり、効率がいいのです。数式で例えると 1×10<10×1 となります。)
そして高圧化には直流よりも交流が優れており、この交流化によって電気設備を25%も軽くすることができました。
さらに交流化は陸上からの電力融通も可能にしています。

このように、随所に手が届かなかった箇所の改善が見られる「朝潮型」は、前述のように公試で航続距離も基準を満たすなどなかなかの成功を収めています。
速度も35ノットに届かない計画から約36ノットまでの数字を発揮するなど、特に大きな問題はありませんでした。
しかし軽量化がされた箇所があったとはいえ、兵装は大きくなり、さらには「第四艦隊事件」によって艦体強度に敏感になったこともあって、結局排水量は2,000tに至ってしまいます。
その中でこの能力を発揮していることは賞賛すべきですが、結局カタログスペック時点での数値にはまだ不満が残っていたこともあり、「陽炎型」が計画されることになるのです。

特に大きな問題もなく竣工していった「朝潮型」ですが、実は再び帝国海軍に動揺が走った事件が起こっています。
「臨機調事件」と呼ばれるこの事件では、竣工した「朝潮型」のタービン翼に相次いで欠損が発生しました。
まさか、また多くの駆逐艦でも同様の問題が発生するのでは、という不穏な空気が漂い、「臨時機関調査委員会」が急遽各駆逐艦の調査にあたりました。
幸いこの問題は「朝潮型」のみで発生しており、原因がタービンの共振にあることが判明。
早々にこの問題を解決し、以後は問題なく航行できるようになりました。

また、旋回圏が広いという問題もありましたが、こちらも舵面積の増加と艦尾形状の変更によって解消。
ともに大事に至る前に改善が施されています。

勇猛果敢に敵に挑んだ、義理堅い駆逐艦


【朝潮】【大潮・満潮・荒潮】とともに第八駆逐隊を編成し、「マレー第一次上陸作戦、リンガエン湾上陸作戦」に従事。
1942年2月からは「バリ島攻略作戦」に参加しました。
このバリ島を巡って勃発した「バリ島沖海戦」で、日本はABDA連合艦隊と衝突。
軽巡3隻、駆逐艦7隻に対して日本は【朝潮・大潮】のたった2隻で戦いを挑みました。
ところがこのABDA連合艦隊、しっかりとした統率や指揮系統が確立されておらず、同海域で日本に攻められては困る国々が寄せ集まったような状態でした。
おかげで圧倒的不利な状況にもかかわらず【朝潮・大潮】【蘭軽巡 ピートハイン】を撃沈させ、さらに【蘭駆逐艦 トロンプ】【米駆逐艦 スチュアート】を撃破する戦果を挙げています。
ところが援護にやってきた【満潮・荒潮】のうち【満潮】が、同じく支援にやってきたABDA艦隊の反撃に合い、大破しています。

6月には「ミッドウェー海戦」に出撃し、【朝潮】【荒潮】とともに「最上型」4隻で構成された第七戦隊の護衛に就きます。
しかしこの海戦撤退中に【最上】【三隈】が衝突、【朝潮・荒潮】は2隻の護衛に回るのですが、そこへ米軍の艦載機が襲いかかります。
【最上】は大破炎上、【三隈】は沈没、【朝潮・荒潮】【三隈】の乗員を救助して【最上】を護衛しながら何とか離脱しますが、両艦の被害も見過ごせないものでした。
帰投後、【朝潮・荒潮】は佐世保で修理に入っています。

駆逐艦では「白露型」が大活躍した「ガダルカナル島の戦い」では、【朝潮】は輸送、護衛に努めて戦闘には参加していません。
その後「ブナ増援作戦、フィンシュ上陸作戦」に従事して、1943年を迎えます。

2月、【大潮】【米潜水艦 アルバコア】の雷撃によって沈没。
第八駆逐隊は3隻編成となってしまいます。
3月、日本は「第八十一号作戦」を発令、【朝潮】もこの作戦への参加が決められます。
ところがこの作戦は、制空権が取られている海域で老朽鈍足の輸送船を護衛するという無茶な作戦で、当初から現場では成功するわけがないと激しく反発がありました。
第三水雷戦隊参謀の半田仁貴知少佐も艦隊司令部に抗議をしましたが、神重徳大佐に一蹴されてしまいます。

その輸送船の中に1隻、【野島】という船がありました。
大正時代に建造された、駆逐艦で言うと「神風型」時代の給炭艦です。
最高速度はわずか12ノットでした。
艦長の松本亀太郎大佐は、第八駆逐隊司令の佐藤康夫大佐と知り合いで、この時に松本大佐「脚の遅い野島は必ず犠牲になります。骨は拾ってください」と伝えました。
これに対し佐藤大佐「私の朝潮が護衛する限り、決して見殺しにはせん。野島の乗員は必ず拾いにゆく」「やられたらお互い必ず救ける」と固く約束しました。

運命の3月3日、危惧していたとおりのんびりと航行する船団を空襲が襲います。
運が悪いことに、この「ビスマルク海海戦」は米軍が反跳爆撃という新たな爆撃方法を採用した海戦であり、初めて目にする攻撃に日本は完全敗北します。
輸送船8隻は全滅、駆逐艦も【白雪・荒潮・時津風】がこの攻撃によって犠牲になりました。
輸送船の中には、あの【野島】も含まれます。
辛くも無傷でこの難局を乗り切った【朝潮】ですが、【野島】からは火の手が上がり、沈没は時間の問題でした。
【白雪】から司令を引き継いだ【敷波】は救助活動を中断し避難することを命令します。
しかし【朝潮】「ワレ野島艦長トノ約束アリ、野島救援ノ後避退ス」 とこの命令を振り切り、【野島】と同じく炎上中の【荒潮】の救助に向かいました。

約束を果たし、【野島・荒潮】の乗員と松本大佐を救出した【朝潮】でしたが、その直後に再び敵機が襲来。
たった1隻だった【朝潮】は為す術な被弾、沈没。
松本大佐はその後も漂流の末救助されるのですが、佐藤大佐「もう疲れたよ」と脱出を拒否、前甲板に座り込み、勇気ある駆逐艦【朝潮】とともに沈んでいきました。
さらに艦長の吉井中佐、一時は救助された【荒潮】の艦長久保木中佐も亡くなり、ここに「ビスマルク沖海戦」、通称「ダンピールの悲劇」は終結します。
船団だけでなく、陸上火砲41門、自動車89両、物資2,500tも海の藻屑となり、また同時に修理によって同海戦に参加していなかった【満潮】を除き、第八駆逐隊は全滅。
【満潮】は自身の修理中に僚艦をすべて失ってしまいました。


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