旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


駆逐艦 秋月

駆逐艦 秋月【秋月型駆逐艦 一番艦】
Destroyer  AKIZUKI 【AKIZUKI-class Destroyer 1st】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
レイテ沖海戦
建 造
1940年7月30日 1941年7月2日 1942年6月11日 1944年10月25日 舞鶴海軍工廠
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
2,701t 134.2m 11.6m 33.0ノット 52,000馬力







防空駆逐艦 真の敵と向き合うために誕生


開戦間近の1939年、日本は戦力となる艦艇の増強計画である「マル4計画」をたてます。
この計画では「甲型駆逐艦」である「陽炎型・夕雲型」「丙型駆逐艦」である【島風】の建造が決定されましたが、もう1つ、両者とは全く役割の異なる駆逐艦の建造も計画されました。
それが「乙型駆逐艦・秋月型」です。

「秋月型」は「防空駆逐艦」とも呼ばれ、敵艦隊への攻撃が求められたこれまでの駆逐艦や「甲・丙型」と違い、空中を飛び回りながら攻撃を仕掛けてくる航空機から艦隊を守るために計画されました。

1930年代から米英では空母の建造スピードがどんどん上がり、それにともなって対空意識も強くなっていきました。
海上にはいない新たな敵が、自軍を脅かす危険性に気付き始めたのです。
主に対空砲となる高角砲や機銃の研究が進む中、1935年にイギリスは古くなったもののまだ良好な状態である【C級軽巡洋艦】を1隻用意し、改造を行います。
そして生まれ変わったC級軽巡洋艦の姿は、これまでにないほど防空能力を満載させたものでした。
主砲もなくなっており、役割が完全にこれまでの艦艇から変化したことになります。
イギリスはこれに続いて「ダイドー級軽巡洋艦」を、そしてアメリカは「アトランタ級軽巡洋艦」の建造にとりかかっています。

さて、日本もこの世の中の流れに取り残されるまいと、防空巡洋艦の建造計画に着手します。
当初はイギリス同様旧式の「天龍型」を改造することも検討されましたが、なにぶん高速性を重視した細身の船体のために、機銃を効果的に搭載することができませんでした。
加えて海軍がそもそも軽巡ほどの大きさで防空火力しか有さない存在に懐疑的で、やがてこの計画は立ち消えになります。

しかし防空艦そのものが重要な存在であるという認識は失われておらず、代わりに防空直衛艦の建造の話が持ち上がりました。
駆逐艦ほどの大きなならまだ安価に、そして早く建造できることもあり、日本はこの方向で計画が進むことになります。

直衛艦という形で計画された「秋月型」は、駆逐艦でないためにお家芸とも言える水雷戦闘能力が皆無だったことが大きな特徴です。
その代わりに防空艦として必要な条件がたくさん求められました。
とにかく重要視されたのは、駆逐艦でお馴染みとなっている航続距離です。
「秋月型」の航続距離は「陽炎型」の18ノット:5,000海里に大差をつけるもので、18ノット:8,000海里という能力でした。
これは「秋月型」が護衛する対象が主に空母であることを考えると、空母勢が8,000海里航行可能ならそれに合わせるのが当然だったのです。
これでも最初の要求よりもずいぶん減ったほうで、本当は18ノット:10,000海里が求められていました。
また速度も、35ノットの要求に対し33ノットで妥協されています。
35ノットを叶えるとなると、立ち消えになった軽巡洋艦クラスの大きさにならざるを得ません。
かといって出力で補おうにも、その機関も非常に高価になるため、今度は逆に量産に向かなくなりました。

しかし長大化を避けたとはいえ、機銃や対空砲の装備だけでなく、燃料を搭載するスペースの確保も必要で、おかげで船体が「甲型」よりも15mも長くなり、134mになりました。
これは【島風】よりも大きく、もはや比較対象に【夕張】が選ばれるほどです(【夕張】の全長は約140mです)。
実際アメリカも、【夕張】以後の巡洋艦に採用された「誘導煙突」を駆逐艦で初めて採用した「秋月型」を見て、「日本は【夕張】を量産している」と報告しています。

構造での特徴は、上記のように「誘導煙突」を採用した他に、【島風】にも採用されている機械室の二室配置が挙げられます。
これまで一室に機関が左右軸とも集中して配置されていたため、被弾や浸水が起こると両方ともが使い物にならなくなり、航行不能に陥ってしまう危険性がありました。
これを別区画にすることで、片方が使用不能になっても航行が可能になりました。

さて、「秋月型」に最も求められた防空能力は果たしてどのようなものなのか。
これは酸素魚雷と並んで、海軍兵器の大傑作とされている六五口径九八式10cm連装高角砲、通称長10cm高角砲の搭載が目立ちます。
これまで巡洋艦以上の大型艦に多く採用されていた、12.7cm高角砲よりも口径は小さくなってしまいますが、そのデメリットが霞むほどの威力が期待されました。
砲身長は6,500mmに延長され、最大射程19,500m、最大射高14,700m、発射速度毎分19発(実用では15発が限度となっていました)と、それぞれが1.4倍以上の性能向上につながっています。

駆逐艦のメイン主砲となる12.7cm連装砲は高角射撃に向いていませんでしたが、この長10cm高角砲は逆に平射砲としての役割も十分に果たせるものでした。
仰角は-10°~90°と、真上から水面まで、満遍なく砲撃をすることが可能でした。
仰角はこれに及びませんが、12.7cm高角砲も平射砲としての役割を果たすことができたため、12.7cm高角砲を主砲にすればいいのではないかという意見は当時からあったのです。
それより高性能であるため、当然長10cm高角砲も量産の要望が強かったのですが、この長10cm高角砲の弱点は、量産できない複雑な構造にありました。
結局長10cm高角砲「秋月型」【大淀・大鳳】に搭載されるにとどまっています。

長10cm高角砲のもう一つの欠点は、その砲身の短寿命にありました。
12.7cm高角砲の寿命が約1,000発に対して、長10cm高角砲の寿命はわずか350発。
連戦どころか、長引けば1つの海戦中でも寿命を迎える危険性があったため、異例とも言える予備砲身も用意されていました。
(実際に艦上での交換がされた記録はなく、結局は交換が困難だということで実施されなかったようです。)

「秋月型」はこの長10cm高角砲を4基8門、さらに随時増設された25mm三連装機銃5基単装機銃13基13mm単装機銃4基と、防空直衛艦に恥じない対空装備を充実させていきました。
同時に九四式高射装置も開発され、これにより砲撃に必要な数字(角度、旋回など)の自動算出が可能になりました。

また防空艦である以上、いかに敵を早く察知するかも重要であったため、電探も優先的に装備されていきました。
竣工時から搭載、竣工後の搭載と搭載時期は分かれますが、大型の21号対空電探と小型の13号対空電探が主に搭載されます。

このように「秋月型」は、日本では断トツの防空艦として君臨しましたが、しかしアメリカは対空砲に加えて日本の電探よりも高性能なレーダーという最大の武器がありました。
「秋月型」が貧弱だったことは決してありませんが、それでも防空面では開戦時から終戦まで、ついにその差が埋まることはありませんでした。

主砲を持たない艦として誕生した「秋月型」ですが、いつのまにか計画の中には四連装魚雷発射管も1基搭載することになっていました。
魚雷は積まない予定だったのですが、なぜこんなことになってしまったのでしょう。

これは結局、日本の貧乏症というか、海軍が海軍たる所以というか、防空のためだけに船を動かすなんて贅沢であるという理由と、海をゆくものが魚雷を積まないなんて許されない、という魚雷至上主義が抜けきらなかったためでした。
しかし結局「秋月型」が魚雷を発射したのは【新月】「クラ湾夜戦」で放った1回のみ。
「餅は餅屋」で対空戦に特化していた「秋月型」に、魚雷を撃つ機会は用意されていませんでした。

「秋月型」「マル4計画」で6隻、「マル急計画」で10隻、「マル5計画」で16隻、そして「改マル5計画」(改定版)で23隻に増加しています。
「改マル5計画」「ミッドウェー海戦」後のものであり、この敗戦がいかに海軍にとって一大事だったかが伺えます。
最大で39隻の建造が計画された「秋月型」でしたが、結局完成したのは12隻。
防空意識は芽生えたものの、日本にはもう計画を完遂できるほどの時間が残されてなかったのです。
八番艦以降は工期短縮のために簡略化も推し進められ、かなり切羽詰まった状況でした。

防空性能を見せつけるも、不要な装備で命を落とした秋月


防空駆逐艦【秋月】は1942年6月11日竣工。
「ミッドウェー海戦」は6月5日ですから、太平洋戦争で最も防空駆逐艦が必要であった海戦に【秋月】は間に合わなかったのです。
訓練すら省かれた【秋月】は、6月15日に【瑞鶴】を護衛して大湊へ向かいます。
【瑞鶴】はこの後アリューシャン方面へ進出しますが、【秋月】は横須賀へとんぼ返りしています。

9月10日に第十戦隊に所属となった【秋月】は、26日に早速襲いかかってきたB-27を1機撃墜。
これは水平爆撃を仕掛けてきた敵機に対する砲撃で、高角砲で低空飛行の航空機を撃墜したことになります。
長10cm高角砲の優秀さが伺えるものでした。

その後しばらくはガダルカナル島で輸送任務に就くことになります。
輸送中は空襲の危険が常にあったため、【秋月】の存在は際立ちました。

【秋月】の対空能力が誇張でないことを身を持って体感するようになると、ついに【秋月】は第四水雷戦隊旗艦に任命されることになります。
常にその席にあるわけではありませんでしたが、短期的な旗艦なら任せたくなるほどその性能は高かったのです。
なにしろ対空兵装に加えて他の駆逐艦と同等の対潜能力、さらに貴重な電探を装備しているのです。
当時の旗艦は【由良】でしたが、うまく役割分担ができると考えたのでしょう。

10月7日に【秋月】【照月】と第六十一駆逐隊を編成しましたが、実はこの2隻がともに出撃したことはありません。

10月14日に輸送任務を行い、続く16日には13隻の駆逐艦を指揮しています。
速度こそ33ノットと遅めですが、輸送であることから各々も速度が平時より遅く、さしたる問題はありませんでした。

10月25日には【由良】を隷下に置いて旗艦に座り続けて出撃という、まだ戦力が多かった時期に異例の体制となりました。
しかしその【由良】が空襲によって直撃弾を受け、沈没。
【秋月】も至近弾を受けて速度が23ノットにまで低下しましたが、【由良】の乗員の救助にあたっています。

横須賀に戻った【秋月】は、修理のついでに機銃の増設も受けました。
先述している25mm三連装機銃のうち2基はこの時搭載されました。

年末までドックにいた【秋月】ですが、この間に【照月】が米魚雷艇の雷撃によって沈没しています。
翌1943年1月15日、代わりに【涼月・初月】が第六十一駆逐隊に編入されました。

それから数日後の19日、【時雨】が護衛していた【輸送船 妙法丸】【米潜水艦 ソードフィッシュ】雷撃を受けて沈没し、【秋月】はその救助に向かいます。
しかし【秋月】も別の潜水艦【ノーチラス】の雷撃を受けてしまい、缶室が浸水してしまいます。
これは新たに取り入れられた構造にも助けられ、辛うじて航行ができた【秋月】はなんとかショートランドへ、そしてトラックへと逃げ切ることができました。

トラックで【工作艦 明石】による応急処置を受けた【秋月】は、続いて内地で本格的な修復に入る予定でした。
トラックからサイパンまで【東京丸】を護衛し、その後【秋月】は佐世保へ向かいました。
しかし出港した3月14日、応急処置では庇いきれなかった被害だったことが最悪の形で露呈します。
船体の背骨とも言える竜骨(キール)がボキリと折れてしまい、たちまち船体がV字型に折れ曲がってしまいました。
航行なんてとてもできたものではありません、【砲艦 勝泳丸】に曳航されて【秋月】はサイパンへと戻りました。

もはやこのまま修理できる状態ではなく、【秋月】は艦橋を撤去され、さらに折れ曲がった船体前部を切断。
お尻だけが【輸送船 神光丸】に曳航されて、7月5日にようやく佐世保へ到着しました。

修理というより半新造になるため、工期は長引くことが予想されましたが、この防空駆逐艦が非常に大切な存在であることは誰もが認めるところでした。
そこで司令部は現在新造中の【霜月】の艦首を切断し、それを【秋月】に接合するという荒業に出ます。
建造された造船所が違うために果たして綺麗にくっつくか不安ではありましたが、これが見事に成功。
同時に機銃増強、さらに逆探九三式水中聴音機21号対空電探が装備され、佐世保に入ってから半年かからずに【秋月】は戦列に復帰することができました。

12月に【翔鶴・千歳】を護衛してトラックに戻ってきた【秋月】は、ここで初めて僚艦である【涼月・初月】と対面。
2隻が編入されてから1年近く経っていました。

12月25日のクリスマス、【秋月】は戊三号輸送部隊の第二部隊に編入され、トラックからカビエンへ向かうことになります。
この時に空襲にあった【秋月】なのですが、ここで【秋月】は防空駆逐艦の力を遺憾なく発揮。
敵機の攻撃が当たらない中、長10cm高角砲と機銃が火を吹き、どんどん敵機が炎に包まれて墜落していきました。
確認されているだけでも13機の撃墜に至り、艦内はお祭り騒ぎだったようです。

1944年1月、第十戦隊旗艦の【阿賀野】が損傷したことにより、【秋月】は新たに第十戦隊旗艦に就任します。
(ちなみに第四水雷戦隊は修理中に解散になっています。)
その【阿賀野】はトラック島空襲に巻き込まれ、最後は【米潜水艦 スケート】の雷撃によって沈没してしまいました。

6月には【大鳳】を護衛しながら「マリアナ沖海戦」に突入しますが、この海戦では多くのパイロットが機銃掃射によって死亡したのとは裏腹に、【翔鶴・大鳳】は潜水艦によって撃沈させられます。
せっかく【秋月】が護衛していたにも関わらず、その敵は空からの攻撃を仕掛けなかったのです。

【秋月】は魚雷を4発も受けた【翔鶴】の乗員を救助、一方【大鳳】は魚雷を1発を受けながらも航行を続けていましたが、艦内に気化したガソリンが充満し、それに引火した結果大爆発を起こします。
【装甲空母 大鳳】の初陣にして最期の瞬間でした。

【瑞鶴】を護衛して呉に戻った【秋月】は、三度機銃の増強にとりかかります。
結果、【秋月】の機銃は計29門にまで膨れ上がり、さらに13号対空電探も装備されました。

10月に入ると、「捷一号作戦」の決行のために【秋月】は徹底した可燃物除去が行われます。
10月24日、小沢艦隊に所属した【秋月】は、決死の戦いに際して酒保が開放され、宴会が行われました。
そして25日、「エンガノ岬沖海戦」が勃発するのです。

【瑞鶴・瑞鳳】を守る【秋月】でしたが、後方からくる急降下爆撃が艦中央部に直撃。
この衝撃で缶室の缶が破裂して高温の蒸気が一気に噴出し、多くの機関兵が死亡しています。
さらにその中央部から今度は黒煙と炎が上がり始め、かと思うと今度はものすごい大爆発が発生。
原因は予備魚雷への誘爆とされており、大穴が空いた【秋月】は軋みながら停止します。

総員退艦命令が出されますが、しばらくもしないうちに【秋月】は真ん中で断裂して沈没。
危険を顧みず【槇】【秋月】の乗員の救助を行いましたが、それでも183名が亡くなりました。

この沈没の原因はまだはっきりしておらず、【米潜水艦 ハリバット】の魚雷を受けたのではないかという意見もありますが、沈没時間と【ハリバット】の魚雷発射時間の差が12時間もあるから信憑性は薄いようです。
また【瑞鳳】を庇って魚雷を受けた」という【瑞鳳】乗員の証言もあり、そして沈没前に艦尾付近を魚雷が通過したという証言も複数あることから、雷撃沈没説はまだ否定はされていません。
現在では紹介したとおり、爆撃の影響による魚雷誘爆が有力視されています。

時代の流れに合わせて登場した【秋月】は、その威力を存分に発揮しました。
他の巡洋艦も次々と対空戦を意識した装備に変更されていることから、開戦前から「秋月型」を必要とした判断は正しかったのでしょう。
しかし誕生が遅いこと、数が少ないことは否定しようがなく、また【秋月】沈没の原因が最後に詰め込んだ魚雷の誘爆というのは、なんとも皮肉な最期でした。


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