旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


航空母艦 加賀

航空母艦 加賀
Aircraft carrier  KAGA


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
ミッドウェー海戦
建 造
1920年7月19日 1921年11月17日 1928年3月31日 1942年6月5日 川 崎 造 船 所
横須賀海軍工廠
基準排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
① 26,900t
② 38,600t
① 238.50m
② 247.65m
① 29.60m
② 32.50m
① 27.5ノット
② 28.3ノット
① 91,000馬力
② 125,00000馬力
※①1928年(竣工時)  ②1935年(大改装完了後)

急遽延命することに 赤城の姉代わりとして加賀誕生


「八八艦隊計画」の断念により、様々な艦が廃棄、計画の廃案がなされました。
「長門型」を上回る「加賀型戦艦」として起工していた【加賀】は、二番艦【土佐】とともに廃艦が決定。
残念ながら標的艦として実験に従事した後、解体されることになりました。
しかし思いもよらぬ形で、【加賀】は「航空母艦」として生まれ変わることになります。

1923年9月、列島を関東大震災が襲います。
人口が集中していた東京は甚大な被害を受け、ライフラインから人の流れからすべてが寸断されてしまいます。
帝国海軍側で最も問題となったのは、【赤城】とともに戦艦から空母へと改造されていた【天城】の大損傷でした。
【天城】は震災の影響で「竜骨」という船底を通る船の下支えが脱落してしまい、計画通りに改造するのはほぼ不可能となってしまいました。

そこで目をつけたのが【加賀】です。
【加賀】
【赤城】よりは空母には向いていない船体でしたが、それでも日本は空母への意欲が高く、新型を建造するよりかは竣工が早いということで、急遽【加賀】を代替艦として採用することになりました。

【加賀】はまだまだ空母としての実験要素が強く、試行錯誤の現れが様々な箇所にでています。
【赤城】と同じく三段式甲板を採用(効力については【赤城】でも述べていますが、役に立ってません)していますが、煙突に関しては着艦時に悪影響が出るため、果たしてどこに設置するのが適当なのかと悪戦苦闘しています。
結果として採用したのが、【英空母 アーガス】で採用されていた「誘導煙突」という、煙突を上に向けず、船尾へ向けて引っ張っていくスタイルでした。

結果的にこれが大失敗。
煙突は両舷を沿って船尾へと伸びていたため、想像を絶する熱が常に艦体を横から覆う形となっていました。
おかげで煙突の裏側は灼熱地獄と化し(室温は40度に達したといいます)、しかもその煙突の裏側にはよりにもよって居住区が存在していまいた。
乗員は蒸し焼きになり、艦載機は燻り焼きになり、ついたあだ名が「海鷲の焼き鳥製造機」
しかも気流の乱れの解消を目指したにも関わらず、船尾では乱気流が発生するという始末でした。
のちほどの大改装では真っ先に対策が取られた箇所です。

速度は巡洋戦艦が元になっていた【赤城】よりも遅く、最速27.5ノット。
これは今後建造される空母を含めてかなり遅い速度でした。

余談ですが、「誘導煙突」の参考となった【アーガス】【フューリアス】は、イギリスが建造した初の本格的な空母でした。
しかしこちらでも【加賀】と同様の問題が発生しており、頭を抱えていたようです。
なのに、10年たたずに改装された【加賀】とは対照的に、なんとこの2隻は廃艦となる1944年までまったく手を付けることなく運用したようです。

世界初の空母実戦運用 失うものも多かった加賀


上記のような劣悪な環境は風紀に伝染し、連合艦隊中最悪な状態でした。
盗人上等、私的制裁は頻発し、果ては上官が芸者を呼びこむ始末。
逃亡者や自殺者が後を絶たず、この風紀を正すのに大変苦労したそうです。

1935年には、三段式甲板や煙突の改造(【赤城】と同じく湾曲型煙突)、飛行甲板の延長など、帝国海軍史上でもトップクラスの大改装工事となりました。
【赤城】と違ってこの改装は成功を収めます。
煙突は艦橋と共に右舷に設置することで【赤城】で発生した問題は起こらず、さらに乱気流の発生も抑えることができました。
飛行甲板は船体よりも長くなり、元が大型戦艦ということもあってかなりの搭載数を確保、公証では72機ですが、最大で103機もの航空機を搭載していたそうです。
排水量も、後ほど建造される【信濃】に次いで2番目で、かなり大規模な空母と変貌しています。
また、大型戦艦の船体は安定度も高く、着艦もかなり精神的な余裕を持ってできたそうです。

この改装により、速度こそ依然28.3ノットと鈍足でしたが、それ以外は【赤城】をはるかに凌ぐ一流の空母として日本に君臨しました。
この改装は【蒼龍・飛龍】の建造の上でよい経験になっています。
なおここでお金を使いすぎたこともあって、【赤城】の改装はあまりいい結果は出ていません。

第一航空戦隊旗艦は【赤城】でしたが、しかし初の空母出撃時、【赤城】は改装工事中だったため参戦できませんでした。
「第一次上海事変」は、世界史上初めて空母が戦闘に参加した機会となります。
【加賀】【鳳翔】とともに本作戦に参加、「支那事変(日中戦争)」では初の撃墜、初の喪失なども記録し、いよいよ航空戦の重要性が増していきました。
この活躍は世界でも大きく報道されています。

【赤城】が戦闘に参加できなかったこと、【鳳翔】及び【龍驤】は小型であったことから、太平洋戦争開戦時に最も経験を積んだ空母は【加賀】で、優秀なパイロットはほとんどが【加賀】に搭乗していました。
また、この戦績は以降の航空機開発にも大きく貢献しています。

「真珠湾攻撃」でも一級品の活躍を見せ、その後も破竹の大戦果を上げていく【加賀】は、日本の機動部隊を世界一にのし上げた立役者でした。
しかし一方で、搭載数が多いゆえに喪失数も多く、任された任務も重要なものが中心、また座礁も経験するなど、強者ゆえの失敗もありました。

その中で迎えた「ミッドウェー海戦」では、戦況の判断の遅さ、慢心、そして奇襲の標的となったことが重なり、第一航空艦隊の絶対的エースであった【加賀】は集中砲火を浴びます。
重い船体を揺らし、なんとか爆撃を回避しようとするも、4発目の爆弾が命中。
運悪く給油タンク付近で爆発したため、艦橋が吹き飛ばされるほどの甚大な被害が発生します。
瞬く間に炎が船体全体を覆い、格納庫で爆発、航空機から漏れる燃料に引火と誘爆が多発、艦内が見えてしまうほどの損傷でした。
護衛に出ていた【榛名】の乗員は、「生存者はいないのではないか」と思ったほどだったそうです。

さすが元戦艦というか、そこまでの大爆発にも関わらず沈没まで9時間もの間海上にあった【加賀】
また、この戦いで【加賀】から発艦された航空隊は、戻る船こそ失ったものの、当たり前のようにしっかりと戦果をあげています。
日本の航空隊の力を世界に証明した【加賀】は、最後まで優秀なパイロットを輩出させ続けていました。


このエントリーをはてなブックマークに追加

⇐航空母艦 赤城 航空母艦 蒼龍⇒




↑ PAGE TOP

inserted by FC2 system