旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


艦上攻撃機 天山

艦上攻撃機 『天山』

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
10.87m
14.89m 37.2㎡ 5,200kg 481.5km/h
機体略号 発動機(三菱) 製 造 設 計
B6N2a
空冷複列星形14気筒
「火星二五型」
中島飛行機 松村 健一
※スペックは「一二甲」に基づく

より速く、一撃必殺を叩き込める機体へ


1939年10月、もうまもなく「九七式艦上攻撃機」が採用されるところで、海軍は早速次世代機の開発に力を注ぎます。
「九七式艦攻」は優秀ではありましたが、一方で初の単葉機艦攻ということもあり、実験的な意味も含めての製造となっています。
次の「十四試艦上攻撃機」はこの「九七式艦攻」の経験を活かし、より高速でより長航続距離を誇る艦攻を目指すことになりました。
そして「十四試艦上攻撃機」は、「九七式艦攻」のメインとなる「一号・三号」を開発した中島飛行機単独指名で開発が推し進められます。

艦攻は魚雷を積むため、速度を出すには相当な馬力が必要となります。
海軍は当時「十二試陸上攻撃機」で採用されていた三菱製の発動機「火星一◯型」を推奨しますが、中島は自社で開発中の「護一一型」の採用を提言します。
もちろんライバル社の発動機を採用したくないというプライドもあったと思いますが、その他にも「護一一型」のほうが出力馬力を2,000馬力まで引き上げられる、燃費効率がいい、などのメリットもあり、海軍はこれを了承しました。

発動機は決定しましたが、この「護一一型」はかなり大型の発動機で、これを採用するには機体の構造も含め「九七式艦攻」とは大きく異る機体を設計する必要がありました。
ただ、艦載機は大型を嫌います。
搭載数が圧迫される上に、エレベーターの大きさ、滑走距離に限りがあるため、艦載機は小さいに越したことはないのです。
そのため少しでも全長を縮めるために垂直尾翼後端を前傾設計しています。

主翼は翼で発生する空気との摩擦抵抗を軽減する層流翼型とし、プロペラは全金属製の4枚組。
燃料搭載量を増やすために主翼の一部も燃料タンクとするセミインテグラル式燃料タンクを採用しました。
フラップには離発着に必要な距離を軽減できるファウラーフラップが選ばれるなど、「護一一型」採用も含めて「九七式艦攻」に負けず劣らずかなり革新的な存在となりつつありました。
そのためまたも開発には相当時間がかかってしまいます。

1942年2月にようやく試作機が誕生。
開発開始から丸2年が経過しようとしていました。
ところがこの試作一号機は「護一一型」がいかに扱いが難しい発動機であるかを痛感させられます。
高馬力の「護一一型」は振動が激しく、故障が多い上にプロペラ回転のトルクが強いため、離発着の滑走時に機首が左に流れてしまうという致命的な欠陥が判明。
特にトルクについては安全な離発着の妨げになるため、改善が急務となりました。
トルクの制御については、垂直尾翼の取り付け位置を少し左に傾けて空気抵抗を加える事でひとまず解消しています。

他にも採用魚雷の九一式航空魚雷改三が強度不足により、補強を加えた改三(改)及び改三(強)を開発。
またあまりにも重すぎるため(「九七式艦攻」は約3,700kg、「天山」は5,200kg)、着艦時に艦載機を引っ張って停止させる制動索が切断されるという事故も多発。
これは「十四試艦攻」に取り付けてある着艦フックの形状を改良することで修正ができました。

このように、中島での試験飛行と海軍での実験が繰り返される中で浮き彫りになってきた様々な問題点ですが、現場となる戦場ではこの「十四試艦攻」の投入が急務でした。
「九七式艦攻」は確かに優秀でしたが、速度差が100km/hもある「十四試艦攻」は大変魅力だったのです。
そのため海軍は、未だ問題点が一部解消されていないにもかかわらず「十四試艦攻」「天山一一型」として採用し、133機が発注されました。

その問題点とは依然として「護一一型」の振動で、これだけはなかなか解消されません。
そこに助け舟を出したのが、当初海軍が採用を薦めていた「火星」でした。
「火星二五型」は「火星一◯型」に水メタノール噴射装置を追加した改良版で、これは性能・振動が安定する上に「護一一型」に比肩する離昇出力を持っていました。
航続距離こそ少し低下してしまいますが、発動機の重量も軽減できました。
また中島がこだわっていた「護」シリーズの発動機も、新たな「誉」シリーズの研究開発に集中するということから生産の終了が決定。
結局すべての条件が「火星」に傾いたため、「護一一型」搭載の「天山一一型」は先行手配の133機にとどまり、すぐに後継の「天山一二型・一二甲型」が採用されました。

「天山一二型」は発動機の変更に基づいてプロペラの長さを若干短くし、また重量減によりバランス調整のために機首が延長されます。
「一二甲型」は、「一二型」で採用されていた後方7.7mm機銃2挺を13mm7.92mm機銃それぞれ1挺に変更したタイプになります。
一方で工程簡略化のために、「一二・一二甲型」では尾輪のみ固定式となりました(主脚は引き込み式です)。

アメリカの進歩は高性能天山を寄せ付けず


1943年8月にまずは「天山一一型」が投入されましたが、改良型の「一二型・一二甲型」が誕生するのはそれから半年後の1944年3月。
時間はかかりましたが、長年の研究の甲斐あって、「天山」は見事に「九七式艦攻」の後継機として世代交代を果たします。
当時のアメリカの主力艦攻は「アベンジャー」(グラマン製・ゼネラル・モーターズ製の2種類があります)で、「天山」はこの「アベンジャー」に比べて速度・航続距離ともに圧倒していました。
しかし毎度のことながら防御力には大きな差がありました。

「天山」は続々と生産が進んでいましたが、しかし非情にも消耗数はそれを上回るものでした。
「一一型」「一二型・一二甲型」がやってくるまでに思ったような戦果を残せず、逆にアメリカの対空装備や戦闘機の性能は日増しに強くなっていきます。
アメリカ戦闘機「F6Fヘルキャット」は脅威となっていましたが、それよりも恐ろしい装置の開発にアメリカは成功していました。
「VT信管」の登場です。
「近接信管」とも呼ばれるこの信管を砲弾に仕込むと、通常なら命中してこそ威力を発揮する砲弾が、航空機の近くまで飛びさえすればレーダーが航空機を感知して自動的に爆発するようになります。
この「VT信管」は結果的に的が一気に大きくなるため、命中率(攻撃成功率)を大幅に飛躍させました。
逆に受ける日本側としては、今まで点の攻撃だったのが言うなれば板が飛んでくるようなものになるので、安全に飛行しかつ敵艦隊に攻撃を行うことがものすごく難しくなります。

加えてパイロット不足・整備員不足・ベテランの不足・空母の不足・工業設備と人員能力の低下と、マイナス要素がどんどんと「天山」に積もっていきます。
「マリアナ沖海戦」「レイテ沖海戦」で稼働できる空母は全滅し、「天山」は結局1年ほどしか艦上攻撃機としての仕事ができませんでした。
「台湾沖航空戦」「九州沖航空戦」などでも「天山」は次々と撃墜されていき、夜間攻撃や誘導などの役割を持ってはいましたが、ほとんど戦果を上げることができていません。
終戦直前の1945年8月12日に沖縄で停泊している【戦艦 ペンシルベニア】を大破させたぐらいでしょうか。
ちなみにこの【ペンシルベニア】は1916年製の第一次世界大戦経験者。
太平洋戦争の開幕戦である「真珠湾攻撃」で大損害を受けながらも近代化改修により復活した戦艦でした。
そしてこの【ペンシルベニア】の大破が、太平洋戦争で日本が艦艇に被害をもたらした最後の戦果であり、太平洋戦争は【ペンシルベニア】で始まり、【ペンシルベニア】で終えたとも言えるでしょう。

「天山」「零戦・彗星」に比べれば少ないものの特攻にも参加。
終戦まで製造が続けられ、終戦時の残機は187機とされています。
1266機が造られたものの、15%ほどしか生き残ることができませんでした。
ただ、「天山」製造の経験は艦上偵察機「彩雲」の開発に役立った、また「天山」の後継の「流星」が全然間に合わなかったことなどから、存在意義はあったといえるでしょう。


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