旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


艦上戦闘機 紫電

局地戦闘機 『紫電・紫電改』

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
8.885m
11.99m 23.5㎡ 3,900kg 583km/h
航続距離 連 コードネーム 発動機(中島) 製 造 設計者
1,432km(正規)
2,545km(過荷)
George(ジョージ) 空冷複列星型18気筒
「誉ニ一型」
川西航空機 川西 龍三

水から陸へ 類を見ない転用で誕生した『紫電』


1941年、川西航空機は海軍の命令で「強風」の開発を急いでいました。
しかし要求があまりにも困難なものだったので、命令を受けてから1年が経過した1941年末でも、未だに先行きは不透明なままでした。
特に、水上機でフロートが装備されているのにもかかわらず、「零式艦上戦闘機」よりも速くしろという要求が「強風」開発の遅延を生み出していました。

大傑作機の「二式大艇」の増備計画も中止となった中、戦況の変化を機敏に感じ取った川西は、もはや水上機の需要減は時間の問題である現実に直面します。
川西は水上機や飛行艇においては他の追随を許さない大変優秀な技術集団でしたが、陸上機や艦載機においては三菱中島飛行機などに遅れをとっていました。
戦争とはいえ、川西も一企業です。
自社の存続が危ぶまれるようになれば、何か対策を打たなければなりません。

川西が注目したのは、「零戦」の後継機としての開発が滞っている「艦上戦闘機 烈風」と、同じく難航している「局地戦闘機 雷電」でした。
開戦から1年、「零戦」の性能は頭打ちとなり、逆に連合軍の航空機の性能はぐんぐん伸びています。
「零戦」の流出によって零戦対策が行き届いた現状では、「零戦」自身の安全はもちろん、艦爆艦攻の護衛もままなりません。
しかし未だに「零戦」が最強の戦闘機である日本は、一向に現れない「烈風・雷電」に苛立ちを隠せませんでした。

そんな中、川西から提案されたのが、開発中の「強風」の陸上機転用でした。
これまで陸上機を水上機に転用するケースは世界的に見てもよくあることでしたが、水上機を陸上機に置き換えるという試みは非常に珍しいものでした。
しかし「強風」も開発途上とは言え、2択よりも3択になるだけで全然違います。
海軍は即日この提案を了承。
しかし海軍の技術者たちは陸上戦闘機の経験が浅い川西を信用できず、審議会が開かれることになり、すぐに開発に着手することはできませんでした。
1942年4月15日、ようやく「仮称一号局地戦闘機」の試作開発が許可され、川西「強風」の設計を流用した新しい戦闘機の開発に乗り出します。

さて、「強風」が陸上機転用に向いていた理由としては、わかりやすく言えば比較対象が「零戦」だったためです。
「零戦」を上回る『陸上機』を開発しているのではなく、「零戦」を上回る『水上機』を開発しているのですから、並大抵なことでは「零戦」に達し得ないのです。
そのため「強風」には他の水上機とは一線を画した大きな主翼を要していましたし、自動空戦フラップであったり、二重プロペラであったりと、新技術もたくさん盛り込まれていました。

ところがこの頃、中島が開発した「誉」という小型で大馬力の新型エンジンが登場したことで、「強風」の転用という目論見はガラッと変わってしまいます。
「強風」には「火星」が搭載されていましたが、このエンジンをただ交換しただけでは、あまりにも余計な空間ができてしまいます。
出力も当然違っていますから、機首部の絞り込みをはじめとした設計の見直しが多数発生し、結局は自動空戦フラップや主翼、操縦席などの一部を除いて、全体的な設計の見直しを余儀なくされました。

さらに、「紫電」最大の問題としてよく取り上げられるのが、主脚を二段伸縮式にしたことでした。
「強風」は水上機のためセオリー通り中翼でしたが、これを「紫電」でも引き継いだたため、主脚の長さはどうしても長くなってしまいます。
しかしこの主翼の中には20mm機銃が搭載されていて、収納するにはこれと干渉しないようにする必要もありました。
長さは必要な一方で、長すぎると機銃に接触する。
この2つの問題を解決する方法として、川西は二段伸縮式という新しい手段で主脚を折りたたむことにしたのです。

ところがこれが大誤算で、まず収納に1~2分かかる、折りたためても今度はちゃんと主脚が降りない、ブレーキが安定しない、といったトラブルが続発。
さらに長い主脚は着陸時の視界不良も引き起こしていて、一時期は3日に1機がこの主脚トラブルが原因で失われたという記録もあります。

また、設計変更の要因となった「誉」もトラブルメーカーで、とにかく性能が安定せず、故障が頻発しました。
試験飛行では目標時速650kmに対して580km前後と、「零戦」よりは速かったものの、とても満足できる結果ではありませんでした。

自動空戦フラップも速度計と水銀灯を組み合わせて使うのですが、その水銀が漏れ出したり、故障して予期しないフラップ展開がされたりと、これもまた不安定。
結局「紫電」は1942年12月27日に試作機が誕生し、その後1943年7月に海軍に接収されるも、多少の速度アップ以外は不安だらけの機体となってしまいました。

ところが、ここまで川西が問題山積ながらも運用はできる「紫電」を作り上げた一方で、事ここに至ってもまだ「烈風」は姿を見せず、「雷電」も完成間近ではありましたが、こちらも量産にはまだ時間がかかりそうでした。
戦場では「零戦」は苦戦に次ぐ苦戦で、「ワイルドキャット」「コルセア」などの戦闘機、更には後継機の「ヘルキャット」も戦場に現れるようになり、新型機、さらに言えば「使える飛行機」があるなら喉から手が出るほど欲しい状態でした。
そのため、「紫電」は問題が解消されないまま、8月より量産化が始まりました。
量産化に先立ち、川西は海軍の鶉野飛行場のすぐ横に姫路工場を建設し、量産化・即納品、出撃ができるように環境を整えます。

真打登場 一流メーカーを喰った『紫電改』が戦場を救う


全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
9.376m
11.99m 23.5㎡ 3,800kg 644km/h




ひとまずは製品として形になった「紫電」ですが、満足しているのかと言われると、否です。
川西の動きは早く、試作一号機が完成したわずか9日後の1943年1月5日、この「紫電」をより洗練された本物に仕上げるために、再設計に取り掛かります。

「紫電」で最も問題だった中翼は早々に低翼に修正されました。
なにしろ「強風」流用へのこだわりが残した負の遺産と言ってもいいのです。
低翼になれば主脚は短くなる、短くなれば二段伸縮式も不要になり、着陸時の視界ももちろん改善されて事故も減る、いいことだらけでした。
主脚の間隔も、これを機に短縮されています。

「誉」搭載によって変更された胴体の設計も更に踏み込まれ、ずんぐりとした「紫電」とは打って変わってかなりスマートな形状となりました。
当然空気抵抗が減少するため、より速度向上につながります。
また、この胴体の再設計により操縦席の高さが下がったたため、これもまた下方への視界改善につながっています。

自動空戦フラップのトラブルも、量産中の「紫電」含め順次改善されていき、また日本機の特徴とも言えた防弾性の脆弱さも解消。
燃料タンクは全て防漏タンクとなり、また自動消火装置も装備。
操縦席後方の防弾板は計画のみで実際は搭載されていなかったようですが、前方の防弾ガラスには20mmの硬化ガラスが使用されていました。
一方で、強固な機体である米軍の航空機を撃ち抜くために、装備された機銃も20mm機銃2挺、7.7mm機銃2挺から20mm4挺へと更新。
搭載銃弾数も900発と、「紫電」の1.5倍近い数字となりました。

また、「紫電」が量産にはあまり向かない構造であったことも問題と感じていた川西は、部品数を「紫電」の2/3に減らしたり、構造・工程の単純化も目指していました。
この時川西は、「烈風ではなく、この紫電改こそが次の日本の主力戦闘機になる」と信じていたのです。

このように、まさに改められた「紫電改」(正式名称 紫電二一型)は、1年で試作機が完成。
「強風」「紫電」含め、川西は大きな企業ではないものの、非常にスピーディーな企業でした。
試験飛行は「紫電」でもテストパイロットだった志賀淑雄少佐が操縦したのですが、この明らかな違いに「生まれ変わった」と驚きを隠せなかったようです。
高速性はもちろん、急降下速度も796km/hを記録して機体の強固さが証明され、また自動空戦フラップも正常に作動。
航続距離は「零戦」には劣りますが、これは「零戦」の航続距離が異常なのであって、ライバルとなる「ヘルキャット」程度の航続距離は誇っていました。

問題があるとしたら「誉」の不安定さだけであり、試験飛行で抜群の評価を得た「紫電改」に対して海軍は全力生産を指示。
引き続き試作改良を進め、1945年1月に制式採用されて本格的な量産がスタートしました。

また1944年3月には、多くの面で「零戦」を上回る傑作機となった「紫電改」を次期主力戦闘機と位置づけ、明確に「零戦」の後継機として認めます。
これにより、「烈風」は開発中止、「雷電」は生産中止の命令が下され(た?)、天下の三菱までもがこの「紫電改」の生産に駆り出されるようになります(実際は9機のみ)。
三菱としてはプライドを踏みにじられた思いかもしれませんが、それほど「紫電改」の性能は優れていたのです。

さらに「紫電改」は、局地戦闘機としてだけでなく、艦上戦闘機としての運用も計画されていました。
実際に1944年11月には、【信濃】で発着艦試験が行われ、そして無事に成功しています。
(着艦フックと尾部の強化を施したものが、「紫電改二」となります)
分類としては局地戦闘機のままでしたが、量産化が進めば陸海両面から「紫電改」が制空権奪取のために戦う日も近かったのです。

しかし、量産化という夢は叶いませんでした。
量産化計画は1945年からの始動でしたが、この頃から本土の軍事工場への空襲が頻発して工場の稼働率が激減したり、部品調達が困難になる、作業員への教育の時間不足などの理由で、「紫電改」は総数約420機の製造に留まってしまいました。
計画では1945年の年間目標として11,800機製造という数字をぶち上げていたのですが。

「紫電改」の活躍はこの1945年から終戦までの僅かな期間ですが、「紫電」で苦戦した「ヘルキャット」「マスタング」「B-29」の撃墜記録も多く、性能と期待に見合った戦果を多く残しています。
ただ、四発機である「B-29」の撃墜には「雷電」のほうが適していて、「雷電」もまた、「紫電改」とともに戦争末期の日本を守るために奮戦しました。
「遅すぎた零戦の後継機」の、短くも輝いた8ヶ月でした。

なお、「紫電改」は大量生産の計画が立っていましたが、一方で、悪く言えば付け焼き刃でできた飛行機がたまたま超優秀だった「紫電改」は伸びしろがないとされ、1945年5月には早くも次の戦闘機の開発計画が始まっていました。
「紫電改」の登場によって凍結された「陣風」の開発再開の可能性もあったようです。
その「陣風」の開発も、川西の担当でした。


ちなみに「紫電」は当時の米軍主力戦闘機の「ワイルドキャット」に、「紫電改」「ヘルキャット」にそれぞれ似ていて、日米双方が見誤ることがしばしばあったようです。
特に誤射の記録は多く、艦隊護衛として哨戒中に銃撃されたり、陸軍機から襲われたり、実際に被弾した例もあるほどです。
しかし一方で、誤認している敵機を誘い込んで一気に仕留めたというケースもあったようです。
この誤射を防ぐために、海軍は陸軍基地に出向いて「零戦・紫電・紫電改」の現物を見てもらうということもありました。

戦中にフィリピンで接収された「紫電改」は、軽荷重量フライトで671km/hを記録し(燃料の質の差もありそうです)、計画値を大幅に上回っていました。
さらに終戦後にアメリカでテストされた「紫電改」は689km/hをマーク。
米航空機との模擬空戦でも「紫電改」には勝てなかったと評され、世界的にも相当優秀な単発戦闘機だったことは間違いなさそうです。

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