旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


艦上攻撃機 流星

艦上攻撃機 『流星』

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
11.49m
14.4m 35.40㎡ 5,700kg 542.6km/h
機体略号 発動機(中島) 製 造設 計
B7A1
空冷複列星形18気筒
「誉一ニ型」
愛知航空機 尾崎 紀男

爆撃も雷撃も可能な大型攻撃機「流星」は過剰要求の代名詞


「九九式艦爆」「九七式艦攻」が艦載機の主力として暴れまわった戦争初期、日本は後継機「天山」の開発を始めていましたが、一方で従来の艦爆・艦攻の性能に限界が来ていることを痛感していました。
主に急降下爆撃を繰り出す艦爆は、敵艦船、特に空母の飛行甲板の装甲が厚くなるにつれて、従来の搭載爆弾では大きなダメージを与えることができなくなってきていました。
これを打開するには、より大型な爆弾(800kg爆弾級)を搭載できる強靭な機体を用意する必要があります。
一方艦攻は、主に敵戦闘機の進化によって敵艦隊に辿り着く前に撃墜されることが想定され、重鈍で対戦闘機能力が欠如している現状を至急改善する必要がありました。

それぞれに弱点があり、それを改善する必要がある。
その方法とは、艦爆艦攻の統一設計でした。

艦爆は強度不足の一方で、機動性に優れます。
艦攻は機動性が足りていませんが、爆弾よりも重い航空魚雷を搭載するために大型で強固です。
一長一短を互いに補い合えることに気がついた海軍は、急降下爆撃も雷撃もできる、大型爆撃攻撃機を生み出すことを決意します。

この機種統合は他にもメリットがありました。
まず、艦爆で1機種、艦攻で1機種、計2機種を製造する必要がなくなります。
例えば艦爆の損耗が激しくても、余っている艦攻が艦爆を補完することはできません。
しかし統合されれば、とにかく1機種を集中して作るだけで済みます。
工場もラインを2つ用意する必要はなくなりますし、製造期間もコストも減らすことが可能になります。

もう一つは、搭載する空母側のメリットです。
のちのち艦上偵察機として「二式艦上偵察機」「彩雲」が出てきますが、空母には搭載数の限度があります。
そのために当初は艦爆・艦攻が偵察も行っていましたし、役割が多いに越したことがありません。
機種統合は、搭載数50に対して艦爆を50機搭載し、かつ艦攻を50機搭載させることができるようになるのです。

1941年、帝国海軍は実績十分の愛知航空機に統合機種「十六試艦上攻撃機」の開発を命じます。
開戦が目前に迫っている中、これまでのようにコンペ形式を取っている暇はありませんでした。

ちなみに両用とは言いつつも分類としては「艦上攻撃機」です。
その代わり、制式採用時の名前は本来「艦上爆撃機」に使用される「星」が付くもの、すなわち「流星」と命名されています。

ただ、中途半端な性能では効果的ではないとは言え、相変わらず海軍は目を疑いたく成るような要求を突きつけるのです。
急降下爆撃と雷撃が可能な機体というのは当然ですが、
・最大で800kg爆弾1発もしくは1t航空魚雷1発搭載
・爆装時の速度は55.6km/h(高度5,000m)
・800kg爆弾搭載時の離艦滑走距離100m
・運動性能は比較的性能のよかった「九九式艦爆」と同等
・翼内に7.7mm機銃2挺(後に20mm機銃2挺)、後部に7.7mm旋回機銃1挺(後に13mm旋回機銃1挺)
・堅牢で整備が簡単、量産に向く
という、書類を投げ出してしまいそうなものでした。

重量も図体も搭載兵器も大型化したのにもかかわらず、軽量機と同等の性能を出せというもの。
これは引き込み脚で800kg爆弾か1t魚雷が搭載可能となった超高性能な「九九式艦爆」「零戦」並の速度と武装を持って戦っていることに他なりません。

この難関に立ち向かった愛知航空機は、まず空気抵抗を減らすため、爆弾はすべて爆弾倉に収納できるようにします。
魚雷は流石に長すぎるので、従来通り吊り下げ式となります。
エンジンは出力1,825馬力を誇る中島飛行機の「誉一ニ型」を採用し、とにかく重量がある「十六試艦攻」の負荷に備えました。

「十六試艦攻」の最大の特徴となるのが、翼を途中で折り曲げて上向きにする逆ガル翼。
この時代の航空機は多くが低翼(機体の下のほうに翼の付け根があるタイプ)で、その理由は脚の長さを短くして重量を抑えることができるため、また低翼にした際に機体との接続箇所で空気抵抗が発生するものの、それはフィレットという接続箇所のカバーのようなものを取り付けることで解消できるためでした。

ところがこの「流星」は低翼ではなく中翼で、機体のちょうど真ん中に翼がついています。
なぜ中翼を採用したのかというと、爆弾倉に爆弾を積むために設計上中翼にするのが当然。

しかし中翼の脚の長さだと、この重たい機体を支えるには負荷がかかりすぎます。
離発着時の安定性も損なわれ、あちらが立てばこちらが立たずの状態でした。
これを打開するのが、逆ガル翼です。

逆ガル翼は、翼の付け根は中翼通り機体の真ん中についていますが、その翼が地面に向かって伸びています。
当然そのまま地面に向かってしまうと突き刺さりますので、途中で折り曲げて上向きに変更します。

逆ガル翼
(赤丸が逆ガル翼の折れ曲がり)

こうすることで、中翼ではあるものの脚の長さを抑えることができます。
もちろん脚の付け根は逆ガル翼の折れ目、一番高さを低くできる場所です。
これで脚に掛かる負荷を抑えることができるようになりました。
加えて逆ガル翼には低翼で使用されるフィレットも不要ですので、フィレットの重量軽減にもつながります。

「彗星」で開発されたセミファウラー式フラップや尾翼調整装置も備えられ、運動性能の向上や揚力を稼ぐだけでなく、急降下爆撃時の安定性も図りました。
装備している機銃のこともあり、結果的に「零戦」を彷彿とさせる戦闘力を持つことになります。
艦爆艦攻の統合だったはずが、それなりの戦闘行為すら可能な機体へとなったのです。

ここまでの力を備えてなんとか完成した試作機一号。
しかし1942年12月に完成したこの試作機は、重量過多、強度不足、空力特性の悪さからとても採用できるようなものではありませんでした。
特に重量に関しては、構造強度計算の時点で誤差があり、要求限度の重量に対して大きな開きがあったようです。

これを踏まえて主翼は楕円形から後端を直線にした形状へ変更、また軽量化を主とした再設計を行いました。
それでも重量はもとから重いと言われていた「天山」よりも重い3.6tで、全備重量は6tに迫るほど。
しかし逆にこの重さにも関わらず、海軍の要求にあらかた答えることができた「流星」は素晴らしい機体とも言えます。

長期間の再設計の結果、再び試作機が計8機製造され、1945年2月にようやく、ようやく、遅すぎる制式採用がなされました。
しかし制式採用こそ1945年でしたが、量産型の生産そのものは1944年4月から整っていました。
ところが中翼は構造上低翼よりも複雑になり、また逆ガル翼という特殊な翼の形状、重い機体などなど、量産を遮る要素が多かった「流星」はまったく製造が追いつきません。
加えて戦争末期となれば本土空襲も茶飯事となり、機体工場だけでなく「誉」を製造する中島飛行機の工場も戦火に見舞われ、追い打ちをかけるように12月には東南海地震が発生。
「流星」の生涯は、始まる前から闇でした。

生産拠点を愛知航空機だけではなく第二一海軍航空廠にも転換しましたが、焼け石に水。
あっという間に終戦を迎え、実践の記録は第七五二海軍航空隊が7月から8月15日の終戦までの短期間に数度出撃しただけ。
しかも戦果は不明、発艦ももちろん空母からではなく陸上からで、空母に載ることもありませんでした。

ちなみに量産が間に合っていたとしても、空母は空母でこの超重量の「流星」をこのままでは着艦させることができませんでした。
航空機は殆どの場合、自力だけで着艦せずに着艦制御装置の力を借りて(着艦した航空機のフックにワイヤーが引っかかり、強引に制御します)停止するのですが、これが通常の呉式着艦制御装置では耐えきれなかったのです。
後期型の空母である【大鳳】「雲龍型」【信濃】には対応型の三式着艦制御装置が搭載されましたが、主力だった「翔鶴型」や軽空母にはそのままでは載せることができませんでした。
特に軽空母は、エレベーターも改良する必要があったり、そもそも大型の「流星」を搭載することすらできなかったなど、「流星」が活躍するには、超えるべきハードルが多すぎました。

製造された機体の総数は、試作機9機を加えても110機ほど。
それなりに有名な艦攻であるにも関わらず、悲しいほどに記録がありません。
艦爆、艦攻、そしてある程度の空戦も可能だった、最強のカタログスペックを誇る「流星」は、敵軍を脅かすことなく静かに生まれ、静かに終焉を迎えました。

余談ですが、いわゆる「流星改」と言うものは、搭載するエンジンを「誉一ニ型」から「誉ニ三型」へ換装した計画のものを指すようですが、現時点での資料では、このエンジン換装後以外の大掛かりな変更点がなく、果たしてそれを「流星改」と呼んでいいものか、という疑問も投げかけられています。

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⇐艦上攻撃機 天山




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