旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


局地戦闘機 雷電

局地戦闘機 『雷電』

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
9.7m
10.8m 20.00㎡ 3,507kg 596.3km/h
機体略号 発動機(三菱) 製 造設 計
J2M3 空冷複列星形14気筒
「火星ニ三甲型」
三菱重工業 堀越 二郎
※スペックは最も多く製造された「二一型」に基づく

いつまでも完成しない次世代戦闘機 しかし戦果は悪くない雷電


「支那事変」で日本は「九九式艦上爆撃機」「九七式艦上攻撃機」「九六式艦上戦闘機」などの活躍により中華民国軍に攻撃を仕掛けていた日本ですが、一方で日本も中華民国軍の爆撃機によって航空基地や艦隊が大きな被害を受けていました。
そこで海軍では、敵陣に赴く艦爆、艦攻の護衛と敵戦闘機の撃墜を主任務としていた艦上戦闘機とは別に、自軍に攻め込む敵機を迎撃する局地戦闘機の要望が高まりました。

海軍はちょうど三菱重工業より「十二試艦上戦闘機」(後の「零式艦上戦闘機」)を受け取っており、その出来を知った海軍は、続く「十四試局地戦闘機」の開発も三菱に任せることにしました。
1940年4月から開発はスタート。
「十四試局地戦闘機」は、艦でも航空機でも海軍の標語の如く使われている「航続距離」がほとんど考慮されていません。
「十四試局地戦闘機」は迎撃機ですので、つまりは自陣で戦うことを求められていますから、移動距離が艦戦よりも格段に減らすことが出来ます。
その代わり、速度・火力・上昇力が重視され、瞬発性の高い戦闘機を目指しました。

航続距離が必要ない以上、海軍から要求された能力はかなりのものでした。
上昇力は高度6,000mまで5分30秒、そして速度はその高度6,000mで約600km/hというもの。
「零戦」「二一型」で533km/h(高度4,700m)でしたので、空気の密度が違うので正確な比較はできませんが、それでも50km/h以上「零戦」よりも速い速度が求められました。

速度と上昇速度を上げるにはとにかく高馬力な発動機が必要です。
速度を上げるだけなら発動機の大きさ・重さもありますから必ずしも高馬力である必要はありませんが、加えて一気に高高度まで上昇するには単純にものすごい力を発揮できる発動機が必要不可欠でした。
そのため、三菱は社で最も高馬力だった「火星」を採用しますが、この「火星」はとにかく大きいため、機体の形状は紡錘形となりました。
また、「火星」はおもに爆撃機のような大型機用のため、紡錘形に合ったものを新たに作る必要があり、三菱は「火星一三型」を開発します。
この「火星一三型」にはプロペラシャフトと強制冷却ファンが備え付けられました。

ところが「雷電」最大の敵がこの「火星」発動機でした。
試作機の初飛行はなんと1942年2月と、開発が決定してから約2年後。
機体の設計もさることながら、この「火星一三型」の開発に多大な時間を割いていました。
にも関わらず、三菱はこの試作機が海軍の要求した性能に遠くおよばないことをフライト前に知ってしまいます。
そのため、初飛行は2月ですが、その前の1941年12月に「火星二三甲型」を積んだ「十四試局地戦闘機改」の開発に当たります。

その「十四試局地戦闘機改」は、なんとか当初の海軍の要求を満たす性能を記録しますが、この「改」開発に際して海軍は無印以上の性能を再度要求していました。
ところが「改」はその新しい要求をかなえることは出来ませんでした。

しかしその要求未達成が霞むほどの大きな問題が三菱を苦しめます。
次なる敵は「振動」でした。
1942年10月の試験飛行で、最高出力を発揮した際に、「十四試局地戦闘機改」は耐え難い振動が発生するようになりました。
原因は減速機とプロペラの耐久度が弱く、それぞれが振動、そしてこれが共振してより大きな振動を発生させていたのです。
ところがこの振動の原因がなかなかわからず、またもや四苦八苦することになります。

ようやく原因が判明したところで、わかりやすい対策としては「火星」の強度を高めるか、プロペラの強度を高めるか、なのですが、これはまた時間が大幅にかかってしまいます。
1942年10月といえば、「ガダルカナル島の戦い」の真っ只中で、日本は徐々に苦しい戦況に立たされていくところでした。
南洋諸島の基地を防空する役割を担うはずの局地戦闘機の導入がさらに遅れるのは許されるはずがありません。
結局三菱は妥協案として、プロペラ減速比を変更し、振動の発生量を低下、さらにプロペラの強度を減速比に合わせた程度までに高めるという方法をとっています。
この結果、速度は海軍要望の600km/h以上を叶えることができなくなりました。

1943年9月、ようやく「十四試局地戦闘機」「雷電」として誕生し、製造がスタートします。
しかしまだ「雷電」は苦境から抜け出すことが出来ません。
今度は高高度で定格出力が発揮できない、また失速速度の安定性が悪いという問題が浮き彫りとなり、とくにこの失速に関しては空母の飛行甲板に着艦することに慣れていたベテランほど危険を伴うというものでした。
ベテランのパイロットは着艦の際は3点同時接地(3つのタイヤをほぼ同時に接地させて着艦する方法)を使う者が多く、それには失速を活用していました。
ところがこの「雷電」は失速したかどうかがわかりにくく、従来の方法で着艦しようとしたら事故を起こすという事例が発生。
これにより「雷電」に乗ることを嫌うパイロットも多かったといいます。

また、同時期により高性能のライバルとして「紫電改」がいたことも「雷電」の増産を阻みました。
「雷電」の完成があまりにも遅く、水上戦闘機「強風」を局地戦闘機仕様へ変更した「紫電改」が先に誕生。
この「紫電改」の評判がよく(不満足な点もないわけではありませんが)、「雷電」はこの「紫電改」と比較すると対戦闘機戦で劣るという烙印を押されてしまったのです。

一方、当時まだ主力として飛び回っていた「零戦」は、この「雷電」の量産を見越して改良を停止、やがて減産に入る予定でした。
しかし「雷電」はいつまでたっても量産されません。
結局「雷電」へのバトンタッチがどんどん遅れてしまい、「零戦」は空白期間を挟んで再び量産にかかり、改良も再開されています。

このように「雷電」はあちこちで悪影響を及ぼしてしまい、最終的には620機ほどしか製造されませんでした。
一方の「紫電・紫電改」は1,400機以上製造され、どちらが現場で求められたかは言うまでもありません。

ただ、かと言って「雷電」が活躍しなかったわけではありません。
相当な難産ではありましたが、「雷電」は当時の米軍の主力爆撃機だった大型の「B-29」を数多く撃墜しています。
完成した「雷電」は、海軍の要求には達していないものの能力不足というわけではなく、当初の目的だった基地空襲の迎撃には大きく貢献しました。
特に赤松貞明中尉率いる雷電隊の戦果は大きく、所属していた厚木基地と東京に侵入する「B-29」を次々と撃ち落としていきました。
彼は大戦後期の米軍主力戦闘機の「P-51ムスタング」75機の群れに突っ込み、1機を撃墜して帰還するという伝説的な記録も残しています。

「雷電」はなかなか評価されづらい経緯があり、結局製造から2年弱ほどしか機会がありませんでしたが、登場してからは本来の役割を果たしていることは認めてもらいたいものです。


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