旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


水上戦闘機 強風

水上戦闘機 <強風>

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
10.58m
12.0m 23.5㎡ 3,500kg 488.9km/h
機体略号 発動機(三菱) 製 造 設 計
N1K1 空冷複列星形14気筒
「火星一三型」
川西航空機 菊原 静男








日本独自の水上機運用から計画された水上戦闘機 強風


「支那事変」の際、日本は当時主力だった「九六式艦上攻撃機」だけではなく、「九五式水上偵察機」も攻撃機として運用していました。
そしてこれが思いの外実績を残したので、海軍は通常の艦上戦闘機だけでなく、水上機も戦闘機として運用しようと目論むようになります。

当時から日本では対米戦争の際の資源調達として、南沙諸島やそれ以南の島々が挙げられていました。
しかしいざ占領ができたとしても、航空基地や航空機の配備には時間がかかります。
準備中に海上から船によって攻めこまれた場合はこちらも船で迎撃ができますが、相手が飛行機の場合、船では限界がありますし、特に島の上空にまで侵攻された場合はこちらも航空機で迎え撃つしかありません。
この基地としての運用が始まるまでの防御方法として、この水上戦闘機が選ばれたのです。

第二次世界大戦・太平洋戦争は水上機の役割は偵察・弾着観測のような補助的なものでしたが、日本はさらに旧時代同様に戦闘機としての役割も任せられるようにしました。
それは上記のように各島々に基地を作らなければならない事情や、数に勝るアメリカを相手にするには様々な運用ができる機体を用意しなればならなかったためです。

1940年、海軍はこの水上戦闘機「強風」を、水上機製造に長けた川西航空機に依頼します。
しかしその要求された性能はかなり厳しいものであり、特に速度に至っては当時運用が開始された「零式艦上戦闘機」よりも早い574km/h(高度5,000m)という馬鹿げた数字でした(最終的には500km/hに届きませんでした)。

川西はなんとかこの要求に応えるために、様々な挑戦をしています。
まず要求速度が異常なため、とにかく馬力のあるエンジンが必要です。
川西は三菱製の「火星一三型」を採用しますが、このエンジンはとても大きいため、通常の航空機の形状だと空気抵抗が大きくなってしまいます。
その対策として川西は機体を紡錘形にし、エンジンを胴体の中心部に配置することにしました。

主翼は胴体の干渉抵抗を軽減し、滑走中に水が翼にかかりにくい中翼配置となりました。
翼の形状も層流翼という、やはり空気抵抗の少ない形状のものでしたが、この層流翼は当時はまだ研究段階で、実験的な側面もありました。

一方フラップは開発された自動空戦フラップが成功を収め、これにより激しい運動時でもファウラーフラップを最適な角度に自動調整できるようになりました。
熟練のパイロットは舵だけでなくこのフラップも手動で操作することでより抵抗の少ない操縦をしていましたが、これは芸当レベルなので当然若いパイロットには不可能な技です。
しかしこの自動空戦フラップはパイロットの技量の差を埋めてくれる画期的なもので、生死を分ける航空機運用での大きな一助となりました。
これにより「強風」は、より翼面荷重の少ない「二式水上戦闘機」とも大差ない旋回性を得ることができました。

プロペラもまた新しい試みがなされ、2枚の羽を前後に2つ組み合わせて設置し、それぞれを逆回転させて両方向に同じ力を送ることで抵抗を打ち消す(トルクを打ち消す)ことを目指しました。
1組のプロペラだと力は回転する方向にのみ力がかかるため、どこかでこの力を打ち消す、もしくは逆方向に同じ力を与えなければバランスが崩れて安定性に欠けます。
対策としては機体を厳密には左右非対称にしたり、また舵を若干傾ける装置などが付けられるなどの方法があります。

この二重反転プロペラは功を奏し、離着水の用意さや安定性がパイロットたちの中で評価されます。
しかしこの二重反転プロペラの弱点はその複雑な構造でした。
整備が大変困難なもので、また油漏れも度々起こした二重反転プロペラは、量産型に発展することなく、最終的には3枚羽の通常のプロペラになってしまいました。
ところがこの代償は大きく、高馬力の「火星一三型」が発生させるトルクを打ち消すためには力強くフットバーを操作する必要があり、また離着水のしやすさも二重反転プロペラと比較して随分難しくなったようです。

時は活躍を許さず しかし陸上機として強風は風をきる


このように随所により優れたものを取り入れた「強風」ですが、完成には3年を要してしまいます。
1940年9月からスタートして、制式採用が1943年12月ですから、開戦から丸2年も経過していました。
先見の明があるとはお世辞にも言えない海軍ですが、しかし今回ばかりはかけていた保険が役に立ってくれています。
この「強風」の開発に時間がかかることを見越して、海軍は中島飛行機「零戦一一型」をベースとした水上戦闘機である、「二式水上戦闘機」の開発を指示していました。

太平洋戦争緒戦の活躍の立役者とも言える「零戦」から生まれた「二式水戦」は、水上機「としては」かなり強力な力を秘めており、誕生した1942年7月からは主に防空・迎撃で活躍しています。
ただ、当然戦闘機と相対すると大きく不利で、本来戦闘機はすべての航空機が標的なのですが、「二式水戦」は戦う相手が限られるという弱点がありました。

その「二式水戦」も戦況の悪化により、役割を持てなくなり1943年9月に生産が打ち切り。
「強風」の誕生を待たずして、そのつなぎであった「二式水戦」がリタイアしてしまったのです。
1943年12月にようやく「強風」は日の目を見るのですが、水上戦闘機の役割はもうありませんでした。
「強風」の開発経緯は、主に基地の防空・迎撃です。
しかしその基地となるはずだったガダルカナル島とその周辺の島々は軒並みアメリカに占領され、守るべき基地はかなり少数となっていました。

遅きに失した「強風」の登場でしたが、わずか97機の製造であっさりと歴史を閉じてしまいます。
もちろん戦果もごく少数で、戦闘機を撃墜した記録はわずかに1機。
意欲的に開発された「強風」でしたが、その存在は戦果という側面からはほとんど見ることがありません。

しかし、ある航空機の母体として「強風」を知っているという人はいるでしょう。
局地戦闘機「紫電」は、この「強風」がベースとされて設計・製造されました。
川西は戦況から水上機の需要はもう長くないということを見越し、海軍にこの「強風」をベースとした局地戦闘機を打診。
当時海軍は「零戦」の後継機「烈風」の開発の遅れや、同じく局地戦闘機「雷電」の開発の遅れがあったためにこの提案に乗ります。
そしてこの「紫電」は、なんと「強風」よりも早い1943年7月から随時配備されていきました(問題点を棚上げしたままではありますが)。
この「紫電」、そして改良型の「紫電改」は太平洋戦争後半から末期にかけて量産され、「零戦」とともに主力戦闘機として活躍しています。

「強風」は自身の力をもってその存在を示すことはかなわなかったのですが、新たな世界で羽ばたいた「紫電・紫電改」という遺産を残した重要な水上機です。


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