旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


偵察機 景雲

陸上偵察機 『景雲』

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
13.05m
40.0m 34.00㎡ 8,100kg 741km/h
航続距離 連 コードネーム 発動機(三菱) 製 造 設計者
3,611km (未成) 液冷倒立V双子型24気筒
「ハ70-Ⅰ型」
海軍航空技術廠 山名 正夫
大築 志夫

実機としては高すぎた頂 ジェットエンジン採用を盾に開発継続


太平洋戦争開戦前の1939年、海軍は陸上偵察機という存在に着目していました。
触発されたのは、のちに陸軍屈指の名機となる「一○○式司令部偵察機」の誕生です。
「一○○式司令部偵察機」は完成後も改良が継続的に進められましたが、初期型が誕生した時は海軍はまだ自前の陸上偵察機を保有していませんでした。

「支那事変」での航空戦においては、護衛がない「九六式陸上攻撃機」が被害を増大させていましたが、他にも索敵偵察ができずに半ば闇雲に突撃していたという側面もあります。
日本は世界に先駆けて偵察機という存在に力を注いでいて、すでに陸軍は「九七式司令部偵察機」「九八式直接協同偵察機」「九九式軍偵察機」と、偵察機を続々と開発していました。
一方海軍は欧米同様、海上向けの偵察機に「九七式艦上攻撃機」などを使っていましたが、陸上向けの偵察機は陸軍の「九七式司令部偵察機」を融通してもらって「九八式陸上偵察機」としているに留まっていました。

そこで海軍は、この「一○○式司令部偵察機」を上回るハイスペックの陸上偵察機の開発に臨みます。
それが「十七試陸上偵察機(試製暁雲)」です。
もともとは「Y-30」高高度記録機として、海軍航空技術廠の実験の一環での開発だったのですが、「試製暁雲」開発のベースとなったのがこの「Y-30」です。

ただ、本格的に計画に移されたのは1941年からで、しかも設計と実験を進めていくに連れ、このままでは速度などが目標数値に到達しないことがわかってきました。
採用予定だった三菱のエンジン「MK10A」の開発も難航し、またこの年月の間に要求される内容も変わってきてしまい、結局「試製暁雲」は木型すらできないまま開発は中止となってしまいました。

しかし陸上偵察機が必要であることには変わりありません。
海軍は「試製暁雲」に変わる、超高速・高高度・小型の偵察機を改めて開発することになりました。
それが「十八試陸上偵察機(景雲)」にあたります。

ただ、要求された数値は世界最速を目指しているかの如く、時速722km/h(高度1万m)というとてつもない数字でした。
さらに航続距離も3,333kmと、こんな数字を小型の双発で出すというのは、無茶以外の何物でもありません。
空技廠はこの難題に対して、異形の設計で勝負を挑むことになります。

通常双発と言えば、両翼にプロペラが1つずつあり、それぞれを1基のエンジンが回すスタイルが主流です。
四発でも同様で、プロペラの数に対してエンジンの数も変わっていきます。
今回の「景雲」も双発機ですので、普段ならこのような形になりますが、当時の日本のエンジン出力では双発にしてもこの速度は発揮できません。
(そもそも双発や四発の役割は速度向上という面よりも、大型機の運用を可能にしたり、単発機✕2以上の性能を出せたり、生還率が上がったりというところがポイントです。)

ならどうするのか。
参考にしたのは、戦前にドイツから購入していた「ハインケルHe119」のエンジン配置でした。
「ハインケルHe119」は双発ですが、外見はちょっと胴体の長い普通の単発機です。
その実態は、エンジンを機体内に並列で並べ、そのエンジンから機首のプロペラまで延長軸を伸ばして回すという設計でした。
つまり、2つの横並びのエンジンで1つのプロペラを回すということになります。

「ハインケルHe119」は、エンジンの冷却不足や構造の複雑さが原因でドイツでは採用されることはありませんでしたが、空技廠はこの配列でなければ要求到達はないとし、果敢にこの新機軸に取り組みます。
当初は3枚翅で二重反転プロペラを採用するつもりでしたが、延長軸とそれに合わせた設計、また冷却問題も抱える上に設計や整備が複雑になる二重反転プロペラはさすがに重荷となり、後に6枚翅へ変更となりました。

エンジンは愛知航空機の「アツタ30型」のエンジンを並列とした「ハ70」を搭載。
馬力は3,400馬力と強力でした。
インテグラルタンクも採用し、燃料を豊富に搭載することで航続距離の目標にも一定のめどがたちました。
しかし問題は発動機の環境です。
ラジエーターも用いた排気タービン過給器を搭載はしてましたが、その程度で果たして効果があるのか、誰にもわかりませんでした。

そんな中、1944年6月に戦況悪化により試作機種整理が行われ、「景雲」も整理対象となってしまいました。
このままでは最速偵察機「景雲」は世に出ることなく廃されてしまいます。
ところが空技廠は足掻き、三菱で開発中の全く新しいジェットエンジン「ネ330」の開発にめどが立ったことを武器にこれに反論します。
「景雲」のスタイルにこの「ネ330」は合致している上、さらに爆撃機としても活用できると訴えた空技廠は、しかし今後の比較データがほしいから現行の「景雲」開発は継続すると主張したのです。

結局この主張で、もはや実機採用される可能性は限りなくゼロになった「アツタ30型」搭載の「景雲」の開発が続けられました。
逼迫した状況で実験機の開発を継続したことは、今でも「景雲」批判の理由の1つとしてあげられます。

1945年5月、排気タービン過給器の開発が追いつかず、結局タービンがついてない状態で試作1号機が初飛行するのですが、心配されたとおり冷却が追いつかずに発動機は不調。
結局大した飛行もせずに試作1号機の飛行試験は中止となりました。
2度目の飛行試験では高度600mに達した時点でついに発動機から火を噴きはじめて緊急着陸。
最後は壊れてしまった発動機を交換中に空襲を受け、試作1号機は破壊されてしまいました。

試作2号機はこの時点ではまだ製作中で、この時点で完全に「景雲」の開発は停滞。
終戦までに2号機は完成せず、「景雲」はジェットエンジンどころか本来の機体の実験すらままならないまま開発が終わってしまいました。
総飛行時間、わずか10分という「景雲」の実績でした。

空技廠を責めるわけではありませんが、そもそもこの並列エンジンは航空機技術が日本よりも優れていたドイツを始め、アメリカやイギリスでも難航している問題でした。
特にエンジンでは大きな溝を空けられていた日本には、荷が重かった取り組みと言わざるを得ないでしょう。



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