旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


九六式艦上戦闘機

九六式艦上戦闘機

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
7.58m
11.04m 17.80㎡ 1,707kg 432km/h
航続距離 連 コードネーム 発動機(中島) 製 造 設計者
1,200km Claude(クロード) 空冷複列9気筒
「寿四一型」
三菱重工業 堀越 二郎
※スペックは最も多く製造された「四号」に基づく

艦載機初の全金属製単葉機 真珠湾攻撃主導の実力者を唸らせた傑作機


ライト兄弟が開発に成功した飛行機。
第一次世界大戦時以後、急速に研究が進んだこの世紀の大発明は、1930年代からは複葉機(両翼に羽が2枚ずつ)から単葉機(両翼に羽が1枚ずつ。現在の一般的な形状)への切り替えが世界各国で始まっていました。

まず、ライト兄弟が開発した「ライトフライヤー号」がなぜ複葉機を採用したかというと、飛行機はなによりも陸から空へ飛び立たなければなりません。
そのためにはできるだけ軽量、かつ強度を保てるもの、そしてなによりも空気力学による揚力を増やすことができる複葉機が最も効率的だったとされたのです。

複葉機はワイヤーで翼をつなぎとめるため、抵抗がありました。
やはり飛行機の研究が進むと求められるのは速度ですので、その速度向上のために多くの人材と資金がかけられるようになります。
その結果生まれたのが、空気力学・航空力学の進歩、軽くて強固な金属の開発、エンジンシステムの向上など。
これらを組み合わせてより速度のある飛行機として誕生したのが、金属製の単葉機です。

船に関しては世界と比肩できるほどの力を誇示していた帝国海軍ですが、航空機と陸軍の戦車に関しては世界とは大きな溝がありました。
空母運用には安定性のある複葉機のほうが扱いがよかったので、積極的な開発に踏み切れていなかったのです。
しかし世界との差は開く一方で、一世代前の複葉機である「九五式艦上戦闘機」はいまだ350km/hほどでした。
そして1935年、ようやく帝国海軍も全金属製単葉機の開発に成功します。
それがこの「九六式艦上戦闘機」です。

陸軍にはすでに単葉機として「キ11試作機」中島飛行機が製作しており(不採用)、海軍の要求でも中島飛行機「キ11試作機」をベースとして設計。
一方三菱重工業はゼロベースから単葉機を開発し、その結果は圧倒的な差となって海軍に届けられます。
もともと海軍が両社に求めたスペックの中で、速度に関しては「九五式艦上戦闘機」と同等の約350km/h(高度3,000m)で、初の単葉機ということもあってか無茶な要求とはいえませんでした(その他もとにかく「単葉機・速度・上昇力」に絞った要求で、多くを追求しないようにしていました)。
ところがそれに準じたスペックである中島の航空機に対し、三菱「九試単座戦闘機」はなんと432km/h(高度3,160m)と100kmほど要求を上回っていました。

あまりに異常な数字だったため、海軍はこの数字に疑念をもたざるを得ませんでした。
提出前のテスト飛行は岐阜の各務原で行われたのですが、「各務原は空気の密度が小さいからそんなに速いんだろ」という冗談も言われていたそうです。
さて海軍の評価はどうかと、後の第一機動部隊航空参謀である源田実が横須賀でテスト飛行を行いました。
源田実は太平洋戦争の火蓋を切って落とした、あの「真珠湾攻撃」の立案者でもあります。
源田実は実際に操縦桿を握って「九試単座戦闘機」を操った結果、「速度・上昇力ともに優れている」としながらも、「射撃性能、着艦性、舵については問題があると思われる」という評価を下しています。

これにより、翌日には模擬空戦が行われることになりました。
スペックは確かに大事ですが、乗るのは技術者ではなくパイロットですので、この模擬空戦は大変重要なものでした。
その結果、源田実は新兵器である「九試単座戦闘機」に太鼓判を押します。
速度は言わずもがな、運動性についても複葉機に劣らない力を持っているとし、完全上位互換として「九試単座戦闘機」は認められたのです。
この経験から源田実三菱と設計者の堀越二郎にお詫びを入れるとともに、熱心に支持をするようになりました。

「九試単座戦闘機」は以後の航空機開発の輝く原石となり、様々な形で磨き上げられていくことになります。

余談ですが、「九六式艦上戦闘機」で完敗した中島は、陸軍での「九七式戦闘機」で再び三菱と競合。
三菱はこの「九試単座戦闘機」をベースにした試作機「キ33」を提出しましたが、今度は中島「キ27」でこれを挽回。
陸上機は中島製のものが採用され、大きな戦果を残しています。

脱欧米 新規採用満載の日本路線を切り開く


「九試単座戦闘機」、のちの「九六式艦上戦闘機」は、複葉機から単葉機へと移行しただけでなく、様々なアイディアが盛り込まれた、大きな意味での試作機とも捉えられる存在でした。
まずは沈頭鋲の採用です。
いわゆる皿リベット打ちのことで、機体を固定するために打ち込むリベットの頭が飛び出ないようにしています。
飛行機の天敵は空気抵抗ですが、速度が速ければ速いほど、ほんの数mmの凹凸が速度や安定性を大きく削ぎ落とします。
皿リベットはその凸をなくすために採用されました。
打ち込む際には金属板もその皿の厚み分だけ凹みますから、実質的に平面になるように工夫されました。

続いて両翼の厚みを増加させています。
これまでは張り線を利用した薄い翼だったのですが、空気抵抗を少なくさせるためにはその張り線を除外しないといけなかったため、翼の形状を変更したうえで厚みを増したものを採用しました。

そしてこれも画期的だったのが「捩り下げ(捻り下げ)」という翼の形状でした。
翼の仰角(むかえかく)は今までは翼端まで行くに連れて徐々に大きくなっていましたが、これだとある一定以上の速度が出た時や、急激な上昇時に翼端失速を起こして安定性が損なわれるという危険がありました。
もしこれが空戦中に起こってしまうとたまったものではありません、死に直結します。
この空気の流れをうまく受け流すため、この迎角を途中で下向きに変え、翼端に行くに従って逆に小さくしていくようにしました。
これが途中で翼を捻っているような形状のため、「捩り下げ」と呼ばれました。
揚力を得るには迎角は必要ですが、かと言って翼端の迎角が大きいと失速の原因になるので解決しなければならない。
その2つを両方叶える手法となります。
このあたりは航空力学に関することなので、申し訳ございませんが詳しくはお調べいただければ助かります。

この他にも油圧フラップの採用や増設燃料タンクの搭載など、あらゆる試みがなされた「九試単座戦闘機」ですが、実は実用化までにはもう少し時間がかかりました。
性能は優れてしましたが、試作機製作にあたっての海軍の要求はあくまで「単座戦闘機」だったため、これを「艦上戦闘機」に適したものへと改良をしなければならなかったのです。
エンジンの選定、着艦時のバルーニング(着艦時に跳ね上がる現象)、翼の形状の変更など多岐にわたった改良。
試作開始から3年をかけて、1937年にようやく「九六式艦上戦闘機」のお披露目となりました。

その姿は「九試単座戦闘機」とは随分かけ離れたものとなっていました。
一番わかり易いのが翼の形状です。
「九試単座戦闘機」の試作機1号はは逆ガル翼といい、最初は少し下に向けられた翼が、途中で折れ曲がって上向きになっているのですが、2号からは通常の翼状へと変更になっています。

最も多く造られたのは、スペックで紹介している「九六式四号艦上戦闘機」で、約1,000機が製造されました。
時代の流れは早く、太平洋戦争時にはもう旧式となっていましたが、「支那事変」では中国軍の航空機を圧倒し、あまりにも強すぎるために「九六式艦戦」に戦いを挑む航空機がいなくなってしまったそうです。
同時期に開発された「九六式陸上攻撃機」とともに中国の上空を飛び回った「九六式艦戦」は、太平洋戦争当初は改装空母に搭載されていましたが、1942年末頃からは主に練習機として使われるようになりました。


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零式艦上戦闘機




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