旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


九六式陸上攻撃機

九六式陸上攻撃機

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
16.45m 25.00m 75.00㎡ ①7,778kg
②8,000kg
①373km/h
②416km/h
機体略号 発動機(三菱) 製 造 設 計
①G3M2
②G3M3
空冷複列星形14気筒
①「金星四二型」
②「金星五一型」
三菱重工業
中島飛行機
本庄 季郎
※①は二一型、②は二三型のスペック
①の速度は高度4,180mでの記録、②の速度は高度5,900mでの記録

陸上からの海軍機 艦船攻撃を目した初の陸上攻撃機


「ワシントン海軍軍縮条約」及び「ロンドン海軍軍縮会議」によって、世界の海軍兵力は決められた制限内での増強を強いられることになりますが、その中で急速に脅威となっていたのが空母です。
戦艦や巡洋艦は自前の砲での攻撃ですが、空母の艦載機はそこから飛び立つ数々の航空機がそれぞれ自由に攻撃することができます。
水上艦はこの空母を守る、もしくはこの空母を撃破することが大変重要な役割となっていたのですが、その増強はこの海軍軍縮条約によって制約されています。

となると、水上艦以外の攻撃によって敵の脅威を退けるしかありません。
そこで取り組まれたのが、陸上基地より飛び立って敵艦隊を攻撃する新しい攻撃機の開発でした。
日本は当時航空機開発においては遅れを取っていましたが、この条約を機に艦載機と並行してまだ世界でも類を見ない、敵艦船攻撃を目的とした陸上攻撃機の開発にも着手していくことになります。

この新しい分類となる陸上攻撃機の開発は、広海軍工廠三菱内燃機(のちの三菱重工業)に任されることになります。
全金属製の大型航空機を製造できる技術を持っていたのが、まだこの2箇所だけだったのです。

広海軍工廠の陸上攻撃機は「七試特種攻撃機」と言う名で試作され、後に「九五式陸上攻撃機」として完成します。
しかしこの「九五式陸上攻撃機」(大型だったので「大攻」とも呼ばれます)は、大型にもかかわらずそれを支えることができるエンジンが存在せず、また機体も強度不足で振動しっぱなしの状態。
搭載爆弾及び魚雷も非常に重量があるため、「九五式陸攻」は早々にお蔵入りとなってしまいました。

一方、三菱はこの攻撃機製作の指示の前に、当初「八試特殊偵察機」という名目で全金属製航空機の開発が進められていました。
三菱はこの「八試特殊偵察機」の開発のために、ドイツのユンカース社の輸送機を参考に、航空機先進国の技術をふんだんに取り入れます。
当時の日本の艦載機は複葉機ばかりで、これは空母という不安定な足場に安全に着艦できることを重視してきたためでした。
しかし欧米ではすでに複葉機は淘汰されつつあり、速度も設計の自由度も高い単葉機が次々と生み出されていました。
また、着艦時の脚も引き込み式が増加し、飛行時の姿はとてもスマートなものになっていました。
引き込み式のメリットは何と言っても空気抵抗の軽減です。
速度や強度を高めるためには必要不可欠な技術でした。

余談ですが、このユンカース社の技術提供の見返りとして、日本はドイツに【空母 赤城】の設計図を提供し、ドイツはこれを元に【空母 グラーフ・ツェッペリン】を建造しています(未完成)。

これを元に三菱は、1934年に双発単葉・全金属製・引き込み脚式(部分引き込み式で、胴体に完全に収まるタイプではありません)を売りとした「八試特殊偵察機」を試験飛行させます。
ところが同時期に、上記のように先だって開発が進んでいた「九五式陸攻」が不調に終わり、本腰を入れていた陸上攻撃機の開発がいきなり頓挫してしまいます。
そこで次に未来を託されたのが、この「八試特殊偵察機」でした。

「八試特殊偵察機」の飛行試験結果はとても良好で、三菱はこれをさらに空気抵抗を抑え、速度と航続距離の向上に努めます。
「八試特殊偵察機」「八試中型攻撃機」、やがて「九試陸上攻撃機」として再開発が進められ、新たに沈頭鋲を採用して胴体全体の空気抵抗を軽減、またエンジンにも今後の三菱の主要エンジンとなる金星が登場し、これを採用しました。
(沈頭鋲については「九六式艦上戦闘機」にてもう少し詳しく記載しております。)

他にも自動操縦装置や可変ピッチプロペラといった日本初の性能も兼ね備えた、日本の航空機の歴史を変革した存在となりました。
しかし魚雷はともかくとして、爆弾も胴体構造の関係上弾倉が確保できず、吊り下げ式となってしまい、この面での空気抵抗は避けられませんでした。

また「九六式陸攻」(および「一式陸攻」)の特徴として外せないのが、何と言っても航続距離の長さです。
初期の一一型では4,550km、最終機となる二三型だと6,230kmもの距離をひとっ飛びできるとんでもない代物でした。
その謎は双翼に隠されており、「九六式陸攻」はインテグラルタンクという、翼の中にも燃料を搭載できるシステムを採用していました。
そのため見た目以上に燃料を搭載することができたのです。

このような再開発の末、1936年に「九六式陸上攻撃機」は完成。
鳴り物入りで現れた「九六式陸攻」の性能は世界レベルで見てもかなりの高水準で、一部では「戦闘機無用論」まで浮上するほどでした。
この翌年に完成する「九六式艦上戦闘機」もまた三菱の開発ですが、「九六式艦戦」はこの「九六式陸攻」よりも航続距離が短かったため、そういう面でも「戦闘機」が「陸攻」を護衛することが事実上できませんでした。

護衛なき出撃の代償と陸攻の目的完遂


ところがこの半ば盲目的な思惑は早々に崩れ去ります。
「支那事変」の勃発により、「九六式陸攻」はある意味では陸上攻撃機の本来の役割である、陸上部隊への攻撃を行うことになりました。
ただ、距離が異常でした。

前述の通り、「九六式艦戦」では異常な航続距離を誇る「九六式陸攻」の護衛ができません。
それでも速度や全金属製、また中国軍が保有する航空機の性能、そして何よりも日本の慢心により、「九六式陸攻」は護衛なしで九州・台湾から海を超えて上海を攻撃するという「渡洋攻撃」を開始します。
往復約1,000海里、キロになおすと約1,800kmを飛び続けるのです。
「九六式陸攻」の航続距離は爆装時でも2,850kmですから燃料は問題ありませんが、動かすのは人間ですから、3時間操縦しっぱなし、なおかつ現地では敵戦闘機を振り切って爆弾を投下、その後戦闘機から逃げて日本や台湾に戻らねばなりません。

この「渡洋攻撃」は日本国内で大々的に喧伝され、世界もまたこのような長距離攻撃に度肝を抜かれるのですが、その実態はとても凄惨なものでした。
「第二次上海事変」が起こったことで、日本は悪天候の虚を突いて護衛もなしに中国へ強襲をかけます。
南京や杭州に果敢な爆撃を行い、その成果は大なるものでしたが、予想に反して日本軍の損害は甚大でした。
1937年8月14日から16日の3日間に渡って行われた最初の渡洋攻撃の結果、「九六式陸攻」は9機が未帰還、3機が不時着もしくは大破。
人名は65名が失われ、この3日間の渡洋攻撃に参加した鹿屋海軍航空隊と木更津海軍航空隊ではそれぞれ「九六式陸攻」が半減してしまいました。

当時の戦闘詳報でも、「十四、十五および本日の空襲において、わが犠牲の大なりしは、不良なる天候をおかし、警戒厳重なる空軍根拠地を強襲せしによるものと認む。当時、上海方面の情勢は窮迫し、わが空襲部隊の強襲は絶対必要と判断し、あたかも往年の二○三高地の強襲にもひとしき心境をもって、この種の作戦を敢行せり」 とあり、攻守ともに看過できない被害を受ける大変苦しい戦いであると吐露しています。

しかし被害を出しながらも効果的な成果を上げていたこの渡洋攻撃を緩めることはできず、後に開発された革命機「零戦」が護衛に付くまでは引き続き死を覚悟したフライトが続くのです。
「九六式陸攻」護衛のための開発ではありません。)
中国軍が徐々に奥地へ引いていき、着実に成果は上がっていたのですが、未だ中国本土に航空基地を造成できない日本は渡洋攻撃に頼らざるを得ず、どんどん「九六式陸攻」の危険度は増していきます。
奥地へ行くということはそれだけ目撃される確率も上がるため、中国も迎撃態勢を整えることができます。
このため、中国軍が保有していた戦闘機が旧式だったとしても、特に防御力に優れるわけではない「九六式陸攻」の撃墜は十分可能だったのです。

この見過ごせない被害を受けて、大西瀧治郎大佐は自らが6機編隊の中に乗り込んで現場の空気に直に触れようと飛び立ちますが、結果、4機が撃墜されます。
運良く大西大佐は生き延びて本土へ帰るのですが、そこで大西大佐は護衛のない攻撃の即時中止を要求しました。
しかしこの訴えに対する答えはなく、大西大佐は後継機となる「一式陸上攻撃機」の設計に携わることで、被害の軽減に努めることになります。

時は進んで太平洋戦争緒戦、日本はこの航空機による攻撃によって連合国に多大な被害をもたらして破竹の勢いで勝利を重ねていきます。
そんな中、開戦から2日後の1941年12月10日、「マレー沖海戦」でも「九六式陸攻」は躍進します。
連合国側の脅威の一つだった【英キング・ジョージ5世級戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ】を、この「九六式陸攻」「一式陸攻」とともに魚雷によって撃沈させることに成功するのです。

「真珠湾攻撃」時に停泊していた旧式戦艦を沈めたのとは違い、この【プリンス・オブ・ウェールズ】はイギリスの最新鋭戦艦で、日本にとっての当面の最大の壁と言っても過言ではありませんでした。
しかも事前に予見できたこの海戦は、イギリスも準備を整えて迎撃態勢を敷いていました。
それにもかかわらず、【英レナウン級巡洋戦艦 レパルス】(こちらは旧式です)とともに航空機の攻撃のみによって戦艦を撃沈させることができたことは、世界の認識を翻すに十分な出来事だったのです。
山本五十六連合艦隊司令長官も、この「マレー沖海戦」において【プリンス・オブ・ウェールズ】を撃沈できるとは思ってもいませんでした。

このあとも「九六式陸攻」は戦地で戦いますが、渡洋攻撃で明らかになった脆弱性と、「一式陸攻」の存在もあって、「九六式陸攻」は徐々に一線を退いていきます。
その後は護衛任務や対潜哨戒機としての活躍、また練習機として使われ、一部では夜間雷撃機として再び戦力として復帰するなど、様々な形で終戦まで貢献を続けました。
また武装を覗いて民間機として転用、派生した機体も数多く、特に毎日新聞社に払い下げられた「ニッポン丸」は、1939年8月~10月にかけて、国産航空機初の世界一周を成し遂げている素晴らしい実績を誇っています。


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