旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


一式陸上攻撃機

一式陸上攻撃機

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
19.63m 24.88m 78.125㎡ 15,451kg 437.1km/h
機体略号 発動機(三菱) 製 造 設 計
G4M2
空冷複列星形14気筒
「火星二一型」
三菱重工業 本庄 季郎
※スペックは多くの派生型の元となった二二型に基づく


超長距離航続可能の太平洋戦争の主力陸攻 一式陸攻


「九六式陸上攻撃機」が誕生し、「第二次上海事変」において果敢に渡洋攻撃を繰り出していた1937年。
海軍は優秀な性能にも関わらず高い損耗率を出している「九六式陸攻」の後継機をすぐにでも用意すべきだと慌てていました。
戦闘機は後ほど「零式艦上戦闘機」が誕生して事なきを得るのですが、しかし旧式の複葉戦闘機にも撃墜される脆弱性は見過ごすことはできません。

そこで海軍は三菱「九六式陸攻」の性能、特に防御力を向上させた「十二試陸上攻撃機 」の開発を指示します。
ただ、いつものごとく海軍の要求は防御力に対しての熱意が不足していました。

・最高速度 約400km/h
・航続距離 約4,800km
・機体の大きさと装備と乗員数(7人)は同様

防御力を向上させたいという意向とは裏腹に、速度・航続距離は当時の量産機である「二一型」を上回るもので、なおかつ機体の大型化は認めない。
普通なら速度や航続距離を落とし、被弾しても耐えきれる性能を持つために多少の重量増、大型化もやむを得ないとなるはずなのに、これでは他の機種同様、当たらないように、逃げ切れるようにしろと言っているのと変わりません。

三菱本庄季郎技師からは「これを双発機でやるなんて無理。被弾した時にすぐ燃える。四発機にして航続距離と防御力の向上、また爆弾の搭載量を増やし、消火装置を着けた強力な機にしたほうがいい」と進言をするのですが、海軍からは「軍が考えるから黙って造れ」と一蹴されてしまいました。
(一部で、この議論は「泰山」の製造過程で行われたものであるという説もあります。)

一応海軍のフォローをしておくと、まず敵戦闘機の主力機銃であった12.7mm機銃は、やがて20mm機銃にまで大口径化する(日本はこの2種類と7mm機銃の組み合わせが多いです)と考えており、その20mm機銃に耐えきれる単葉機・双発機なんて造れない、それなら当たらないようにするしかない、と思い込んでいたのです。
(結果的に連合軍は20mm機銃を採用することなく、過度な不安となっています。)
しかし現状の7mm機銃12.7mm機銃に耐えきれていないのに、それに耐えうる性能向上すら認めていないという点にはかなりの疑問が残ります。

また、海軍はいわゆる中攻と言われる、中型攻撃機だけの生産にこだわっていたわけではなく、他にも大型攻撃機(大攻)や大型飛行艇の製造も進めていました。
中攻が先行しているとは言え、メインは大攻、輸送は大艇。
戦闘機を加えたこの航空隊で制空権を確保しようと考えていたのです。

ところがこの大攻の製造が失敗続き。
「九六式陸攻」で紹介した広海軍工廠の「九五式陸上攻撃機」をはじめ、その後中島飛行機に製作命令が出された「十三試大攻 」(「深山」)も失敗。
最終的に「十八試大攻」(連山)の開発が進んでいましたが、こちらは完成前に終戦を迎えてしまいお蔵入り。
結局日本は最後まで大攻を用意することができず、サブだったはずの中攻がいつまでも主力として戦い続けることになるのです。
ちなみに陸上戦闘機も製造されるのですが、それは結局能力不足のために「二式陸上偵察機」及び「夜間戦闘機 月光」として転用され、陸戦には「零戦」やのちの「紫電」などが使われました。

このような経緯もあり、「十二試陸上攻撃機」は特に「九六式陸攻」の防御力を高めた機ではなく、単にもっと速くなった機として製造されることになりました。

ただ、そんな中でも三菱の力侮りがたし、様々な実験の成果を取り入れ、着実に完成品を作り上げていきました。

まず、「九六式陸攻」では魚雷型のスマートな体型だったものを、もう少し太くしたいわゆる「葉巻型」を採用。
これは風洞実験の結果、この「葉巻型」にしても空気抵抗の影響はかなり少なかったからです。
この実験結果はとても重要で、これにより以前は吊り下げ式だった爆弾や魚雷を格納することができます。
格納できれば空気抵抗は更に軽減できるため、速度向上の大きな一因となりました。
この「葉巻型」は「局地戦闘機 震電」「水上戦闘機 強風」でも採用されています。

空気抵抗を抑えた上でスペースが確保できたのなら、大型のエンジンの搭載も可能となります。
すなわち「金星」よりも大出力となる「火星」の採用につながり、速度もアップすることができました。

武装は従来の7mm旋回機銃に加えて20mm旋回機銃一挺を尾部に搭載。
7mm旋回機銃も四挺搭載とかなりの重武装となりました。
「九六式陸攻」では指揮運用の関係上、機首銃座が設置されていなかったのですが、蓋を開けてみれば戦闘機の護衛がありませんから、正面から来た敵戦闘機に対して発砲できる機銃が存在しないという馬鹿馬鹿しい欠点が露呈。
そのため「十二試陸上攻撃機」には20mm機銃とは別に、機首に機銃を配置することも頭から決まっていました。

燃料は結局航続距離向上のために「九六式陸攻」同様インテグラルタンクを採用。
一応防弾と発火率の低下のために防弾ゴムや消火装置を取り付けたりしているのですが、事ここに至っても航続距離に影響する点や、そもそも防弾ゴムの性能がなかなか向上しないという理由であまり熱心に取り組まれませんでした。
ただ、これにより「十二試陸上攻撃機」は四発機相当の航続距離を誇る凄まじい双発機となるのです。

運動性能も本庄技師の洗練された空気力学に加え、柔軟な発想と前例にとらわれない姿勢から「十二試陸上攻撃機」は四発機相当の航続距離に加え、およそ双発機とは思えない運動能力を手に入れました。
本庄技師は半年後に再び依頼を受けた「一式陸攻二二型」では層流翼を採用し、またこの結果空気抵抗が低減されたので安定性を高めるために水兵尾翼の面積を増幅。
エンジンも大きさも武装も大きく変わったため、本人ですら「二二型は全く違った機体」と話しています。
にも関わらず運動性は「一一型」と大差なく、現場のパイロットは驚いたようです。
なお、速度や航続距離も同じく大差なかったのですが、これは元が元なので特に大きな問題ではありませんでした。

後述いたしますが、最終形態となる「三四型」の設計の中心にいたのは高橋(巳治郎?)技師で、こちらはさらに大幅な変更がなされています。

一発発火 ワンショットライター


本庄技師の苦心の成果として誕生した「一式陸上攻撃機」
しかし「一式陸攻」はアメリカから不名誉な仇名をつけられることになります。
それこそが「ワンショットライター」。
一発当たればたちまち火達磨となる、非常に倒しやすい機体だったのです。
(これは戦後に面白おかしくつけられたという説もありますが、どちらにしても「一式陸攻=ワンショットライター」というイメージを払拭するのは容易ではないでしょう。)

1941年に「一式陸攻」はデビューし、「九六式陸攻」でもご紹介の通り、「マレー沖海戦」【英キング・ジョージ5世級戦艦 プリンス・オブ・ウェールズ】を撃沈させる大金星をあげています。
しかしこの時期から特に艦船の対空機銃の性能が向上しており、特に敵艦隊に対して低空水平飛行が必要となる雷撃は困難を極めました。
上空を飛び回る戦闘機や爆撃機、急降下爆撃と違い、的がほぼ真っすぐに突っ込んでくる雷撃はまだ狙いやすかったのです。
それに加えて上記のように防御力が弱く、一度火が付けばあっという間に炎上する構造である「一式陸攻」は、「九六式陸攻」の損耗率を下げるために製造されたにも関わらず次から次へと撃墜されていきました。

ただ、「一式陸攻」は高高度性能が異常に高く、連合軍の戦闘機でも手を焼く高さからゆうゆうと爆撃をすることが可能でした。
そのため、「支那事変」の時も、フィリピンのアメリカ陸軍航空基地を爆撃した際も、高高度からの爆撃でほとんど被害なく成果を上げた実績があります。
海上への爆撃にはこの方法は向きませんが、陸上基地を攻撃するには十分な性能は持っていたのです。

しかし戦闘はやはり海上で行われることが多いため(海軍ですからね)、急降下爆撃ができない「一式陸攻」は一発の威力が高い雷撃に使われることが多くなっていきました。
「ミッドウェー海戦」で空母が激減したあとはより一層「一式陸攻」の出番は増えるのですが、今度はあまりにも飛び回りすぎて、あちこちへ出撃しては撃墜されるという悪循環で、1942年の8~11月だけで100機以上が撃墜されています。
1機に7人乗っていますから、全員死亡したという最悪のケースで計算すれば、700人もの人名が失われているのです。
この時期はちょうど「ガダルカナル島の戦い」の時期で、海から空から大激戦となり、制空権を奪われていた日本は遂に翌年2月に撤退を開始するのです(ケ号作戦)

やがて当初は優位だった高高度にもアメリカの戦闘機が対応できるようになり、被弾に弱い「一式陸攻」は更に住処を失っていくことになります。
戦闘機も「零戦」対策は取られていたため、そう簡単に敵機を追い払うことはできませんし、「ヘルキャット」は堅牢で運動性能も高く、大変厄介な存在となりました。
それでも「レンネル島沖海戦」において夜間爆撃・夜間雷撃で【米ノーザンプトン級重巡 シカゴ】を撃沈したり、「トラック島空襲」の時に【米エセックス級空母 イントレピッド】を、「台湾沖航空戦」では【米ボルチモア級重巡 キャンベラ】を大破に追い込むなど、劣勢ながらも戦果を残しています。

こんな中、「一式陸攻」は当初の防御軽視を改めざるを得ず、1943年の製造からは自動防漏タンクを採用、また二酸化炭素噴出式の消火装置や30mmの防弾ゴムを使ったりなど、今度は極端に防火重視となりました。
それでも単純な戦力不足を補えるほどのものではなく、日本の劣勢は日に日に増していきます。

ついに「三四型」では「一式陸攻」の大きな特徴であった長航続距離を支えていたインテグラルタンクを廃止。
自動防漏タンクを採用しましたが、防弾用のゴムの厚さは相当厚くせざるを得ず、また当然搭載できる燃料は減ってしまうため、航続距離は3割も減少。
四の五の言っていられる状態ではありませんでした。

ただ、この「三四型」すら、終戦間近であったことや、後継機「銀河」が製造されていたことから、こちらはたった60機の製造に留まっています。

他にも「一式陸攻」山本五十六連合艦隊司令長官が撃墜された「海軍甲事件」の乗機であることや、特攻機「桜花」の母体となったこと、その真逆に、終戦後には緑十字機として3ヶ月間だけですが活躍したこともありました。

このように、「一式陸攻」は戦う環境と本体の防御力の弱さが最悪のマッチングとなってしまい、不名誉な呼ばれ方をされた上、多くの悲劇を経験している機体となってしまいました。
一部では「一式陸攻は特に防御力がないわけではない」という意見もあるのですが、どちらにしても数多くの機体が失われたことには変わりなく、救われたであろう命がたくさんあったことは事実です。


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