旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


零戦

零式艦上戦闘機(二一型 ・ 五ニ型丙) 通称「零戦」

(最大速度は計測高度によって変わります)

全 長 全 幅 主翼面積 重 量 最大速度
①9.05m
②9.121m
①12.0m
②11.0m
①22.44㎡
②21.30㎡
①2,421kg
②2,955kg
①533.4km/h
②544.5km/h
機体略号 発動機(中島) 製 造 設 計
①A6M2b
②A6M5c
空冷複列星形14気筒
①「栄一二型」
②「栄ニ一型」
三菱重工業
中島飛行機
堀越 二郎
※①は「ニ一型」、②は「五ニ型丙」のスペック

連合国を恐れさせたZero 徹底した攻撃性能強化


現代でも多くの国民に名が知れ渡っている旧帝国海軍の戦艦【大和】
それに追随する戦時の存在といえば、この「零戦」は筆頭候補になるでしょう。
開戦直後にアメリカに与えた衝撃や、その開発・活躍を記した様々な書籍が出版されていることなどから、日本では飛び抜けて知名度の高い艦載機となっています。

「零戦(零式艦上戦闘機)」は、「ぜろせん」とも「れいせん」とも呼びます。
「ゼロ」は英語読みですから、戦争当時に敵性語を使うことなどない、という意見もあるようですが、陸海軍ともにそのような言語制限は行っておらず、この読み方は両方とも使われていたようです。

さて、歴史に名をしっかりと刻んでいるこの「零戦」ですが、実は敵機が恐れ慄くほどの圧倒的な性能を持っていたわけではありません。
艦載機のみならず、すべての構造物には長もあり短もありますが、日本はその長と短の差が激しく、逆に当時のアメリカの主力戦闘機「F4Fワイルドキャット」はそこまでのバランス崩壊はありませんでした。
そのためにまだ「零戦」の強さの秘密がわからなかった連合国からは、無類の強さを誇る「零戦」に恐怖を抱いたのです。

軍艦でも言えることですが、この「零戦」の元となる「十二試艦上戦闘機」もまた、徹底した航続距離と攻撃力・速度強化を要求され、中島飛行機は早々にこの土俵から降りてしまいます。
製造は「九六式艦上戦闘機」を設計した堀越二郎が所属する三菱重工業が引き続き担当することになりますが、堀越二郎もこの無謀な要求に対して「ないものねだりである」と言い放っています。

1938年1月、三菱「支那事変」で活躍した「九六式艦戦」を操縦していた源田実から、格闘力と航続距離の向上を「十二試艦戦」では叶えてほしいとの訴えを聞きます。
それを踏まえた設計案が4月10日に海軍に提出されますが、3日後の審議会において堀越二郎「格闘力・速度・航続距離のうち優先すべき一つはどれか」と問います。
それに対して源田実は「格闘力」と答えますが、しかし航空廠実験部の柴田武雄「攻撃隊掩護のためには速度・航続距離が重要だ」と訴えてきました。
その場では結局どっちも大事という結論になり、堀越二郎は頭を抱えながらも引き続き設計に取り組むことになります。

およそ1年後の1939年3月、試作一号機が完成。
一号、二号では発動機出力が不足したため、三号では発動機を「栄一ニ型」へと換装し、そしてこれが「零戦ニ一型」として正式採用されることになりました。

「零戦」は速度・航続距離向上のためにとにかく軽量化が追求されました。
「九六式艦戦」同様、沈頭鋲やスプリット式フラップ、空気力学を駆使した構造等が採用された本機ですが、あまりに軽量化させすぎたために試験飛行では試作二号機が空中分解、奥山益美が殉職してしまいます。
また1941年4月にも急降下実験中にやはり空中分解し、下川万兵衛が殉職しています。
そのようなこともあり、「零戦」太平洋戦争開戦直前まで何度も改良が施されていました。

兵装は両翼の20mm機銃と機首の7.7mm機銃ニ挺でしたが、この20mm機銃は双発機でも落とせる高威力ではあるものの、初期は携行弾倉に60発ずつしか入らず、また標準を合わせるのが難しくて当てる前に弾切れになるという苦情もありました。
そのため弾倉はのちに各100発、125発と改良されていきました。

対する防弾ですが、これが「零戦」の大きな欠点の一つでして、防弾や被害軽減の備えが非常に弱かったのです。
軽量化の犠牲となった防御力ですが、防弾燃料タンク、防弾ガラス、自動消火装置などが一切なく、「ワイルドキャット」と比べると大きく溝をあけられていました。
ただ、その旋回性の高さと、何よりも視界の広さから緒戦の「零戦」の喪失数は少なく、腕のあるパイロットは「零戦」の弱点を自らカバーして戦っていました。
視界の広さは敵機に後ろを取られた場合の回避行動の早さに直結し、生存率をあげる上ではとても重要な事でした。
この点は設計士の堀越二郎も同様の見解で、高い性能を維持するために防御を犠牲にし、海軍からも当時から防弾装備の注文は受けなかった、としています。
防弾の議論が出てきたのは、パイロットの練度の低下と、反比例して強化された米軍の戦闘機への対処のためでした。

さて、「零戦」が輝いた理由である格闘力と速度・航続距離について紹介しましょう。
格闘力とは大まかに言うと運動性能の高さのことで、ロール(後述)を除いて縦横無尽に旋回できる旋回性に加え、優秀な気化器が背面飛行の高さ制限を取り払う役割を果たしていたため、大変柔軟な飛行ができました。
初期のアメリカは「ゼロとドッグファイトを行うな」と通達していましたが、それは自前の機体が同じ運動をすると機体が持たないからです。
操縦も簡単で安定感もあった「零戦」は、訓練期間を短くできるという副産物も生み出しています。

もう一方の速度・航続距離は、軽量化の甲斐あって530km/hという最大速度を記録。
航続距離は増槽込で3,350kmという膨大な数値を叩き出し、広い太平洋を縄張りにするために必須な偵察および監視、また想定外の距離から敵に攻撃を仕掛けることができるなど、あらゆる面で重宝できました。
太平洋戦争開戦直後、日本は台湾からフィリピンを「零戦」で攻撃しますが、その際アメリカはまさか台湾から飛び立ったとは思わず、近くに空母がいると誤認したそうです。
しかしこの超航続距離はパイロットの負担を大きく膨らませる事にもなり、特に制空権を失っていた「ガダルカナル島の戦い」の際は、ラバウルから1,000km離れたガダルカナル島を中継なく目指すという地獄の出撃を行っています。

このように、防御力を犠牲に幅広く活動できる性能を持った「零戦ニ一型」
しかし1940年から暴れまわった「零戦」の天下は、さほど長くはありませんでした。

見せてはいけない大きな穴 世代交代が進まず主力であり続けた零戦


防御力を犠牲にして製造された「零戦」ですが、それ以外にも致命的な欠陥が存在していました。
それは「高高度での性能低下」と「ロール性能の悪さ」です。
まず、高高度では舵の効きが悪くなり、また高度のあるところから急降下すると軽量化した機体が耐え切れないという欠点がありました。
戦闘は常に追うわけではありませんから、振り切るために高速で上昇・下降することも茶飯事です。
しかしその手段の一つである急降下に危険性があるというのは大きなリスクでした。

また、リスクという点では「ロール(横転)性能の悪さ」もあり、特にこの面では世界でも最低クラスのものでした。
いくら旋回性能がいいとはいえ、ロールはその初動にあたりますから、そのロールの鈍い動きに間に詰め寄られたり銃撃されたりする問題がありました。

このように、防御力のなさに加えた2つの欠点は、開戦当初はあまりにも強すぎるために連合国にはわかりませんでしたが、「アリューシャン方面の戦い」において「アクタン・ゼロ」と呼ばれる「零戦」流出の大損失から、「零戦」の弱点が露呈します。
以後、アメリカは「零戦」との戦い方を徹底し、加えて改良を重ねた「F4Fワイルドキャット」「零戦」相手に十分戦えるようになっていきました。

日本はこの問題に対して「零戦三ニ型」を製造し、「ガダルカナル島の戦い」では「ニ一型」とともに投入されますが、それなりの速度・上昇力向上と引き換えに格闘力や航続距離が低下。
「ガダルカナル島の戦い」で求めらた航続距離が不足していることから、結局増産されずに次の開発へ着手します。

1943年、「ガダルカナル島の戦い」では敗北し、またアメリカは後継機「F6Fヘルキャット」を戦場に送り出してきます。
「ワイルドキャット」ですら苦戦するようになっていた中に現れた重装甲の「ヘルキャット」は、対零戦戦術と相まって日本の脅威となりました。

日本は急ぎ「五ニ型」を作り出し、小改良の結果「五ニ型丙」が1943年末から44年にかけて登場。
これは「零戦」最大の長所でもあった軽量化を廃し、火力と防御・防火性能の向上を目的として造られました。
自動消火装置や防弾ガラスなどが装備され、この頃からようやく防御への投資がはじまったのです。
しかしこれだけでは速度が落ちてしまうので、発動機は「栄ニ一型」へ変更し、また両翼を短くする、排気を加速エネルギーへと変換できる推進式単排気管を採用するなどで速度を上げることに成功しています。

結果として性能はそれなりに向上し、未だ格闘力が高い「ニ一型」と、生存力が上がった「五ニ型丙」がパイロットの好みによって使い分けられ、引き続き主力戦闘機として運用され続けます。
しかしもはや登場から4年が経とうとしている「零戦」の改良です。
先に紹介した後継機「ヘルキャット」を相手にするには流石に分が悪く、善戦はしたようですが数の不利もあって戦況は厳しいままでした。

そもそも「零戦五ニ型丙」は後継機となるはずだった「烈風」のつなぎのために生まれたのですが、この開発がさっぱり進まず、後に副産物として「紫電・紫電改」が誕生するものの、結局「零戦ニ一型・五ニ型丙」は終戦のその瞬間まで日本の第一線で戦い続けることになります。
最終的には同じく後継機の登場が遅れに遅れた艦上爆撃機の役割も担うべく、500kg爆弾を積んだ「零戦六ニ、六三、六四型」までもが登場しますが、逆に特攻兵器としても使用されるようになり、多様な運用に振り回され続けました。

設計、製造は三菱でしたが、ライセンス生産を行った中島製の方が実は多い「零戦」は、他にも紹介しきれいていない多くの派生型も含めて10,000機以上が製造されました。
鮮烈なデビューを果たし、敵機が強力になる中でも奮戦はしましたが、主力である期間が長すぎたために日本にとっても「零戦」自身にとっても不幸な結末を迎えることとなってしまいました。


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⇐九六式艦上戦闘機




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