旧日本海軍の戦艦、空母や航空機などについて簡単にご紹介します


軽巡 阿武隈

軽巡洋艦 阿武隈【長良型軽巡洋艦 六番艦】
Light Cruiser  ABUKUMA 【NAGARA-class Light Cruiser 6th】


参考資料 『写真・太平洋戦争の日本軍艦 [大型艦篇][軽艦艇篇]』(阿部安雄・中川勉)
起工日 進水日 竣工日 退役日(沈没)
レイテ沖海戦
建 造
1921年12月8日 1923年3月16日 1925年5月26日 1944年10月26日 浦 賀 船 渠
常備排水量 全 長 全 幅 速 度 馬 力
5,570t 162.15m 14.17m 36.0ノット 90,000馬力







壊されることはなく、沈みそうな危機も回避 阿武隈


【阿武隈】「長良型」の中でも特別新しい艦なのですが、それは単に末っ子だからという理由ではありません。

【阿武隈】が進水して半年後、関東大震災によって文字通り日本に激震が走りました。
【阿武隈】はすでにドックを出た後だったため、【天城】のような船体へのダメージはありませんでしたが、当然その後の作業が予定通り行われるわけはありません。
艤装の工事が停滞し、竣工したのは進水から2年後の1925年。
五番艦【鬼怒】が竣工してから2年も経過していました。

しかしこれは【阿武隈】がより長く海上にあり続けるきっかけにもなっています。
1940年が近づくと、「天龍型」「長良型」は老齢ということで廃艦・練習艦格下げ、そしてそれに伴う代替艦の建造の計画が持ち上がります。
結果的にこの計画はすべて破棄され、計8隻は揃って太平洋戦争で活躍をするわけですが、この計画の中に【阿武隈】はそもそも含まれていませんでした。
理由は当然、他の艦よりまだちょっと若いから。
もし計画が実行されていても、【阿武隈】は史実通り、第一水雷戦隊の旗艦を務めていた可能性も十分あります。

しかし楽あれば苦あり、【阿武隈】の不幸は演習中に発生しました。
夜間演習中、【阿武隈】の舵が突然故障して操縦不能になります。
慌てて人力操舵に切り替えようとしますが、すぐ前には【北上】がいました。
結局舵取りが間に合わず、【阿武隈】【北上】に追突、【阿武隈】は艦首を損傷し、【北上】も大きな被害を受けてしまいました。
幸いお互い転覆には至らず、修理の末に戦列に復帰しています。

1933年には、「長良型」で初めて近代化改装を行い、カタパルト水上偵察機を搭載します。
また、開戦直前には酸素魚雷が発射できるように61cm四連装魚雷発射管へ換装。
これで、第一水雷戦隊の旗艦としての装備は全て整います。
【阿武隈】は、「長良型」の中で最も高い位から、太平洋戦争に挑みました。

水雷戦隊の旗艦は神通だけじゃない 一水戦の旗艦全う


【阿武隈】は第一艦隊の第一水雷戦隊旗艦に就任し、そしてその解散直前まですべての編成で旗艦を務めたエリートです。
水雷戦隊の旗艦といえば、【神通】が筆頭に上がると思いますが、彼女は第二水雷戦隊の旗艦を長く務めていました。
一水戦と二水戦はそもそもの役割が違うので優劣はつけることができませんが、【阿武隈】【神通】並みに誇れる任についていたのです。

一水戦の役割は第一艦隊の護衛がメイン。
日本の第一艦隊の主力部隊は基本的に戦場に出ることはなく、それにともなって【阿武隈】が戦場で戦うこともしばらくはありませんでした。
「ミッドウェー海戦」にも出撃しますが、やはり主力艦隊のお守りをするだけで支援・救援にも参加できていません。

その後も出撃はするものの砲撃戦はなく、栄誉ある役目とは裏腹に戦闘とは縁遠い存在となっていきました。

水雷戦隊の本領が発揮できたのは、開戦から2年もたった1943年3月。
「アッツ島沖海戦」【阿武隈】は、【那智】らとともに【米重巡 ソルトレークシティ】の撃沈に成功します。

7月も【阿武隈】は活躍しますが、今度は全く逆方向での戦果をあげます。
「キスカ島撤退作戦」、戦史上類まれなる、損害ゼロでの撤退作戦です。
キスカ島に取り残されている兵士5200人を全員無傷で救いだした奇跡の作戦、【阿武隈】木村昌福少将座乗のもと、その迅速かつ無駄のない作戦の指揮を行いました。
【阿武隈】自身も1202人の兵士を輸送、霧が出るまで耐え忍び、キスカ島をたった1時間でもぬけの殻にしてしまいました。

ちなみにこの「キスカ島撤退作戦」、実行前に1つ、歌が歌われています。

「一番が敵だ敵だとわめき立てあっと打ち出す二十万」

一番とは、見張り員のこと、そして当時の二十万は、現在で換算するとおよそ20億。

果たして歌の真意はというと、この作戦は夜に実施されたのですが、見張りが島全体を敵影だと勘違いし、「敵発見!」と叫び、あっという間に4発の魚雷が島に向けて一直線。
【島風】が放った15本の魚雷とともに、動かない島に4本の魚雷は見事命中しました。
魚雷は当時1本およそ5万円、つまり5億円ほど。
つまり、「見張りのちょっとした見間違えで20億がパーだ」という歌でした。
歌ったのは、【阿武隈】の水雷長です。

「キスカ島撤退作戦」は文句のつけようのない作戦だったのですが、その救出作戦直前、求めていた濃霧が思いの外濃く発生していたため、道中で【阿武隈】【海防艦 国後】が衝突するという事故も発生しています。

1943年には対空兵装を強化、1944年にはカタパルトを撤去してさらに対空兵装を強化、電探も装備し、水雷戦隊ながらも空を意識せざるを得ない戦況になっていました。

1944年には、第一水雷戦隊は第五艦隊へ編入され、日本の主力艦隊の護衛から解き放たれます。
しかしその初陣は「レイテ沖海戦」
戦力が不足している何よりの証拠でした。

【阿武隈】志摩艦隊に所属し、合流が遅れたために先行する西村艦隊の後を追って敵を殲滅する計画でした。
そして西村艦隊は先陣をきり、【扶桑・山城】を中心に敵艦隊へ突撃してきます。
志摩艦隊も後に続きますが、その行く手を米軍の魚雷艇が遮ります。
スリガオ海峡付近に現れた魚雷艇が、志摩艦隊に向けて多数の魚雷を発射。
そのうちの1本が【阿武隈】の1番砲塔下付近に直撃し、艦内でも一酸化炭素が充満する被害が発生。
航行はできたものの、速度は低下、50人以上が死亡してしまいます。
この被害により、【阿武隈】は一水戦旗艦を【霞】に譲り、【潮】とともに戦線から離脱します。
その際、前方で燃え上がる炎が日本の戦果だと沸き立ちますが、やがてその炎が【扶桑】から上がっているものだと知ると、艦内は沈黙でうめつくされました。

【阿武隈】は鎮痛の思いでミンダナオ島に到着しますが、死期はすぐそこに迫ってきていました。
応急処置を終え、コロンへ向かう【阿武隈】【潮】でしたが、米軍の空襲が2隻を襲います。
直撃弾3発、至近弾4発という致命傷を受け、艦上は死屍累々の様相を呈します。
やがて魚雷発射管に引火した炎が【阿武隈】の船体に亀裂を入れ、誘爆により船体切断。
【潮】に救助され、【阿武隈】はここで沈みます。
そしてこの戦いからしばらくもしないうちに、第一水雷戦隊も解散することとなったのです。

第一水雷戦隊は、第二水雷戦隊と比べると決して派手なものではありません。
しかし一水戦は日本の主力艦隊を安全に送り、また危険を排除し、常に日本の威厳に傷をつけまいと神経をとがらせて任務にあたっていた、大変名誉な役割であったことを忘れないでほしいと思います。


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